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2015年6月21日 (日)

マルコによる福音書 4章21~25節 「イエスの発想から学んでみる」

 パウロは見た目で分かる病気を抱え、働きながら地中海沿岸地域を中心に自給伝道を続けました。困難の連続であったことをパウロは告白しつつ、「弱さを誇る」信仰の表明に転じていきます(Ⅱコリ11:23以下)。パウロは自らの弱さを曝け出す自由を知っています。それは、受け止められている自分を受け入れることで、支えられている実感に生きたのです。
 キリスト者は艱難や悩み、困難から救われ切った存在ではありません。そのただ中にあるからこその信仰に生きる者なのです。わたしたちの信じるイエス・キリストは苦しみの道を、しかも十字架への道を歩まれました。信じるわたしたちが安穏な道を歩みたいと願うのは、身勝手であり思い上がっているということができます。
 パウロの状況は、時代と場所は違っていてもマルコ福音書の教会と共鳴するところでもあったと考えられます。マルコと彼の教会の葛藤状況を聖書学者の大貫隆は以下のように言い切っています。【それはあえて一言で言えば、「わたしの名のゆえにすべての人に憎まれる」という生前のイエスの口に入れられた予言(マルコ13:13)に尽くすことができる。すなわち、一方ではユダヤ教徒の、他方では非ユダヤ教徒(異邦人)の二重―この意味で「すべての人」の―憎悪にさらされ、迫害の中におかれている状況である。】
 マルコによる福音書の今日の言葉は、ここに生きるキリスト者の存在はまさに「ともし火」を手にした者として描かれているのです。周辺を仄暗くしか照らすことができない弱々しい光です。風が吹けば消えてしまうようなものです。それでも、キリストにある者は、その「ともし火」を「升の下」や「寝台の下」に隠すことができないというのです。
 「ともし火」とは、キリスト教の偉人や聖人のことではありません。ただイエス・キリストご自身の信仰によって受け入れられていることを認識し、生かされてあることを信じ従う人すべてに当てはまることです。キリストによって名前を呼ばれ招かれている一人ひとりであり、この群れのことです。誰一人として招きから漏れることはありません。
 「ともし火」とは、パウロの言うところの弱いキリストです。その「ともし火」を灯すわたしたちも弱さを隠すことができません。しかし、神の力によって支えられ強められているキリストのゆえに、わたしたちも「ともし火」に支えられる一歩を踏み出していくようにと、今日の聖書は告げているのです。このことを心に刻むようにと23節で「聞く耳のある者は聞きなさい。」と念を押します。大掛かりで大袈裟な光を灯して、ではなくてたとえ微かな「ともし火」であっても灯しながら歩んでいく方向付けがイエスの発想であり、ここにはわたしたちが今、学ぶべき事柄が示されています。

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