マルコ4:10-20「教会の溜息を克服する」
マルコ福音書冒頭の「神の子イエス・キリスト」という言葉は、宗教的にも政治的にも中立的ではなく論争的な言葉です。ユダヤ教からすれば明らかに冒涜の言葉で、ローマからすれば皇帝の権威を認めないと宣言する言葉、そう受け止められて当然なのです。ゆえにイエスをキリストと告白する信仰、さらに、そのキリストが十字架に磔られ、さらにはよみがえったとする信仰は、この世への闘争的な言葉なのです。
マルコ福音書が書かれた時代は(諸説あるが)、第1次ユダヤ戦争により大きな被害がありました。ローマに破れ、神殿も破壊され、家族や家、財産を失った人々があふれ、根扱ぎにされた難民もあふれます。また、生き方が揺らぎ、戦争への態度の違いなどから家族同士さえ憎み争い、殺し合いへと発展することもあったでしょう。マルコ福音書の教会の宣教の現場は、このように戦争の傷の生々しさと荒れ果てた人々と、その社会です。そういう情況の中、教会はイエス・キリストの福音を宣教しているのです。宣教とは、生前のイエスの生き方に信じて従うことを命じる福音ですから、おそらく主イエスの歩みに自らの教会の歩みを重ね合わせるように祈り解釈されたはずです。溢れる病人を見舞い、治療し、貶められた人々を慰め、餓えた人々に炊き出しを行い、など、主イエスに従う道を模索して歩んでいたはずです。その教会自身、人々と同じ時代を生きている以上、同様に痛み、傷ついていたのでしょう。
さらには、種を蒔く人はみ言葉である福音を蒔くけれども、土地である人々はしっかりと受け入れてくれないという現実。この現実は、マルコ福音書の教会の苦難を背景にした言葉であり、溜息を表わしています。マルコ福音書の教会は厳しい宣教の現場にいます。「サタンの働き、艱難や迫害、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」と呼ばれる事柄です。それでも、倦むことなく種を蒔き続ける生き方を辞めてはいけない、そうすれば20節の「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」という現実がやってくるに違いない、そう信じていこうというのです。幸運にも教会に残っている人々を「良い土地」と呼んでいるのではない、ずたずたでありながらかろうじて主に従っている現実を述べたものだと思います。現代の教会、わたしたちの現場にも置き換えられることです。
教会を自己批判的に捉え直しながら伝道するところにこそ、何かしらの新しい気づきや可能性が与えられる。4章2節~9節の、種を蒔くと30倍、60倍、100倍と豊かな実がすでに結ばれているという主イエスの楽天主義に立ち返ること、種蒔きとしての伝道活動を支えていく根拠はそこにあります。
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