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2015年5月

2015年5月31日 (日)

マルコによる福音書 4章1~9節 「イエスの楽天性」

 今日の聖書によれば、種を気前良く、いい加減にばら撒いて、放ったらかしにしておいても勝手に育って実を結ぶのだというのです。ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった、他の種は石だらけで土の少ないところに落ち、すぐ目を出したが日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまった、他の種は茨の中に落ちた、茨が伸びて覆い塞いだので実を結ばなかった、とあります。この物語は「だから実を結ぶのは全体の1/4」という印象が強いかもしれませんが、実は、道端に落ちた一粒、石だらけで岩盤の上の薄地に落ちたのも一粒、茨の中に落ちてしまったものも一粒、です。ざあっと蒔かれて、結局実らなかったのは三粒だけです。放っておいても、一人ひとりに与えられている<いのち>の種は一粒のままで、すでに30,60,100の約束があるし、その約束のもとで祝福されてしまっているのだということから、ここにはイエスの楽観性というものが表れていると考えます。
 イエスの聴衆、当時の聞き手、イエスの周りにいる人たちというのは、いわば、日々の生活が根こぎにされ大きな不安とか恐れの中にある人たちです。その人たちに対して、その人たちの状態をよくよくわかった上で、イエス・キリストは基本的なあり方とは楽観なのだと言うのです。あなたたちは自分のことを、取るに足らない、ちっぽけな小さな一粒の種であるように思っているかもしれないけれど、それぞれに携えられた一粒の種には、すでに今30,60,100という祝福の約束があると言うのです。今もうすでに、その約束のうちにあなたたちは祝福されてあるので、どのような苦境にあろうとも決して希望を失うことはないのだ、ということをイエス・キリストご自身が語っているのです。
 イエスの場合は、おそらく、この水平に広がりゆく可能性を神の国によって支えられた楽天性と呼ぶことができるかもしれません。自分という存在が広がりの中で、水平や時間的な広がり、その向こうにある神の国としか呼べない別の世界観につながっているという感覚があるということです。彼岸によって今が確実に支えられているという現実理解です。ここでこそ、自分という存在は、一人ぼっちという孤独ではなく、様々な支えによって何かにつながっているという確信による安心、ここから楽天性は生まれ育つのです。
 無謀で、乱暴に思われるかもしれませんが、主イエス・キリストにおいては、熟慮された神の思いが満ちているのです。ここに向かってわたしたちは、信頼を置いていくことができるのです。イエスの楽天性に満ちた言葉があるからこそ、わたしたちは今日という日を感謝し、これまでの歩みに喜びをもって振り返ることができ、明日からの生活に希望を抱くことが赦されている、そのような道筋を主イエス・キリストがたとえという仕方でもって語りかけているのです。

2015年5月24日 (日)

マルコによる福音書 3章31~35節 「聖霊は家族を捉え直す機能をもつ」

  「わたしの母とは誰か、兄弟とは誰か」(3:33)と問いつつ、既成の家族概念に対して疑問符を与え、相対化の宣言をしています。母、兄弟とは、ここにいる群衆なのだと。マルコ福音書では、群衆とは「周りを取り囲んでいる者たち」です。イエスの近くに座る者たちこそが、御心を行う者だ、というのです。つまり、家族や家族のようなものを無化する、ないしは相対化するあり方は、共に座る人であるとされます。「座る」という行為は消極的ではなく、積極的な姿勢であり、行動なのです。イエスはユダヤ風に座って説教します。ですから、座ることは、イエスに従う姿勢だということができます。
 この座るという行為、これについて「隣る人」という造語がヒントになりそうです。児童養護施設「光の子どもの家」を立ち上げた菅原哲男の言葉を引用しながら評論家の芹沢俊介が論じている文章を簡単に紹介します。
【 養護施設で暮らす子どもたちが失ったもっとも切実なものは、家庭的な暮らしの場と家族の関係である。何よりまずその失った場面や関係を保障することが、養護施設の第一義であると菅原は述べる。そして、それを「隣る人」という言葉でとらえ、どんなことがあったとしても、決して断ち切られることなどない人のことだと説明する。何よりも「受け止める人」である。何が出来なくてもいい、居続けること。
 「何もしなくていい」という意味の第一は「居ること」「居続けること」である。「居続けること」は、その人の存在が消えないこと、今日もいたのだから明日もいるであろうことが信じられることだ。このような永続性の感覚は子どもに安心と安定をもたらす。「何もしなくていい」ということの第二の意味は、子どもの前に自分を差し出すことである。自分を差し出さなければ、子どもの表出を受け止めることはできない。子どもの表出を受け止めることは、子どもが子どもの望むように自由に受け止め手を使っていいという意味である。これが「何もしなくていい」ということの第三の意味である。 】
 続けて芹沢は少年事件をいくつかあげ、彼らの家族が「隣る人」となりえていなかったと指摘します。換言すれば、子どもに絶対的に必要なのは家族よりも「隣る人」だと。
 イエスは共に座る(=隣る)ことで家族を相対化しうる視座を与えているのです。周りに座っている一人ひとりを積極的全面的に受け入れ、自らの存在全てを差し出すことによって、見捨てられていない安心感と「生きていていい」「一緒に生きていい」というメッセージを送ります。「周りに座っている人々を見回」す、その眼差しによってわたしたちは一人残らず捉えられてしまっているということです。ここに主イエスの聖霊の働きがあります。

2015年5月17日 (日)

マルコによる福音書 3章20~30節 「イエスの赦しは底が抜ける」

 ここで言う食事とは、2章13~17で描かれているような「徴税人」や「罪人」らとの食卓です。この食卓の意味するところは、イエスの共同体である教会の平安で平和な交わりです。しかし、世間の価値観からすれば「穢れた」ものであったのです。ですから、「一同は食事をする暇もないほど」というのは、教会という安全地帯ではない場所での出来事だということです。
 一人ひとりの<いのち>のかけがえのなさ、尊さを押しつぶし自由を奪い、縛りつける力に悪魔の力を見て、主イエスはこれにNO!を突き付けていきました。一方、ユダヤ教の指導者や権力者たちは、宗教の掟によって差別が行われることで定められる安定の道を尊いと考えたので、主イエスに殺意を抱くほどに社会の秩序を乱す危険人物と見たのです。
 主イエスは、ユダヤ教社会の規範からもローマ社会の規範からも全く自由でした。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(3:28-29)と。ここで言われている「人の子ら」とは人間一般のことを指します。人間は全き自由が与えられた存在なのだ、との宣言です。この自由の前には、どのような教えや戒め、法律も無効である。何を考え、行動か自由だというのです。しかし、注意が必要です。それは29節の解釈に関わってきます。28節では「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と語りながら、「聖霊を冒涜する者」に対しては制限が加えられるとあるからです。
 「聖霊を冒涜する者」は、キリスト者の自由の性質から解釈する必要があります。「食事をする暇もない」状況は、この世に放り出されたキリスト者の立ち居振る舞いが社会ないし家族の中で孤立し、しばしば暴力的に排除される可能性を示すものです。この状況の中でキリスト者は、当時の世界の期待する人間像から外れることによって「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」自由な存在なのだというのです。それほどまでに自由を与えるイエスの赦しは底が抜けているということです。人を殺してもいいのか、盗んでもいいのか、など十戒に関わる悪の問題が関わってきます。主イエスの言葉からすれば、赦されます。自由なのです。しかし、この自由は簡単なものではありません。慎重であるべきです。この点について、マルチン・ルターの『キリスト者の自由』の言葉は示唆に富んでいます。本の冒頭でまず自由について語っています。第一が「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない」。第二が「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している」。対立する内容の緊張の中に、キリスト者の自由は存在するのです。たとえば、「人を殺すほどの自由が与えられていることを自覚している人は殺すことをしない」という発想につながります。
 このイエス・キリストにある底抜けの赦しゆえの自由から開かれる世界観が、わたしたちの前に広げられつつあるのです。

2015年5月10日 (日)

マルコによる福音書 3章13~19節 「これと思う人々」

 12人を選んだのは、まず「彼らを自分のそばに置くため」(3:14)だというのです。イエスの活動というのは英雄主義によって完結するものではなくて、誰かを必要とする、その関係性の中での運動である、そばにいる人がなければイエスの活動はできないということです。弟子たちが傍に置かれる目的は、「派遣して宣教させ」(3:14)と「悪霊を追い出す権能を持たせるため」(3:15)です。派遣して遣わす。使徒という言葉は「遣わす」を名詞にしたものです。ここで「権能」と訳されている言葉は「力」とも訳せますが、「権威」なのです。イエスが活動を始めた時に「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(1:27)の内容を受けています。イエスのその権威を弟子たちは受け取っていると理解できます。
 イエスが自分のそばに置いて、「派遣して宣教させ」(3:14)て、「悪霊を追い出す権能」(3:15)としての新しい教えとしての「権威」を、イエスがなさったことを12人に託されたということです。つまり、「悪霊を追い出す」(3:15)者が本来ならば弟子なのだ。傍にいてイエスに倣う、ないしは真似ぶ生き方をしなさい、それが教会の元なのだ、基本なのだということを述べています。そういう弟子たちが同時に、無理解だというのです。いわゆる12人の弟子たちの理想像、かくあるべしを語りながら、文脈の中では本当のところは無理解の人たちだったということを、その限界を指摘しているのです。神の選びという性質、方向性というものの基本の「き」を押さえておかないと教会は誤った方向に歩んでしまうのだと。
 マルコ福音書に描かれた弟子たちは無理解だったわけです。けれども、その無理解を通して理解に至る道がある。つまり知恵とか賢さとかが無化されていく領域の中で、神の招きが輝いていく場所というのが教会なのである。そこでこそ、「派遣して宣教し、悪霊を追い出す権能(権威)」が起こりうる。この世におけるところの構造悪である悪霊の働きに対して闘いを挑んでいくように召されている。神の国の建設の働きに招かれているのは欠けだらけの人、イエスが寄り添った弱りだらけ破れだらけの人間を、そのままでかけがえのないものを仲間として、友として招き、他の誰彼とは交換不可能な尊い人格として招くのです。それぞれの弱さや欠けを持った儚く脆い人たちが、その弱さをもったままでイエス・キリストのあり方を倣う、真似ぶ、そのような共同体として招かれているのです。本来の教会の姿というものを理想にしか過ぎないのだとしても語らずにはおられないマルコによる福音書の証言が、ここにはあるのです。

2015年5月 3日 (日)

マルコによる福音書 3章7~12節 「今ここで生きること」

 当時、ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と評され、聖なるエルサレムから差別される地域であったと言えます。今日のマルコ福音書を読んでいくと課題の中心は、あなた/わたしの生きる場所はガリラヤという地域によって象徴される場だということです。「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」(3:7-8)ここにあるように「ガリラヤから来た」人は「従った」、「ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りから」の人たちは「集まって来た」という風に違いがあります。
 「従う」というのは、イエスの後をついていくことです。信じて従うこと、イエスの生き方、イエスの後姿を見つめながら倣っていくことです。ガリラヤ周辺に元々住んでいた人がイエスのところに向かうことは、自分の生きている場でイエスに信じて従うことなのですが、他の地域からの人たちは単に「来た」だけだというのです。イエスの活動においてガリラヤの人たちは応答として「従う」、他の地域の人たちは「来た」、ここにはイエスの現場主義があらわされているのではないでしょうか?(他の地域出身者でも信じて従った人がいたことを否定するものではありません。)イエスとの出会いにおいて、今ここで生きる、自分の場で心も身体も分離しない、乖離しない、この姿勢でイエスを信じているのかが問われているのです。
 わたしたちは礼拝から祝祷をもって送り出されて、イエス・キリストに信じ従う道に派遣されていきます。置かれている場にシッカリと心も身体も乖離させない仕方で過ごしていく、そういうあり方を模索していきなさい、それこそが神の御心に従う仕方なのであるし、そここそが、あなた/わたしにとっての聖なる場所だということです。わたしたちが普段暮らしている場で、当たり前なことを当たり前なこととして過ごす。それぞれのガリラヤという現場においてイエスに招かれている暮らしがあるし、そこでこそイエスに従っていく道が備えられてくるということです。
 あなた/わたしが生きていくガリラヤという場にイエス・キリストはいるのです。これは、復活のキリストがガリラヤで待っていてくださるという約束の先取りが語られていることでもあります。このような意味で証し人として信じて従うものとして招かれていることの確かさを信じることのできる幸いを感謝したいと思います。

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