マルコによる福音書 4章1~9節 「イエスの楽天性」
今日の聖書によれば、種を気前良く、いい加減にばら撒いて、放ったらかしにしておいても勝手に育って実を結ぶのだというのです。ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった、他の種は石だらけで土の少ないところに落ち、すぐ目を出したが日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまった、他の種は茨の中に落ちた、茨が伸びて覆い塞いだので実を結ばなかった、とあります。この物語は「だから実を結ぶのは全体の1/4」という印象が強いかもしれませんが、実は、道端に落ちた一粒、石だらけで岩盤の上の薄地に落ちたのも一粒、茨の中に落ちてしまったものも一粒、です。ざあっと蒔かれて、結局実らなかったのは三粒だけです。放っておいても、一人ひとりに与えられている<いのち>の種は一粒のままで、すでに30,60,100の約束があるし、その約束のもとで祝福されてしまっているのだということから、ここにはイエスの楽観性というものが表れていると考えます。
イエスの聴衆、当時の聞き手、イエスの周りにいる人たちというのは、いわば、日々の生活が根こぎにされ大きな不安とか恐れの中にある人たちです。その人たちに対して、その人たちの状態をよくよくわかった上で、イエス・キリストは基本的なあり方とは楽観なのだと言うのです。あなたたちは自分のことを、取るに足らない、ちっぽけな小さな一粒の種であるように思っているかもしれないけれど、それぞれに携えられた一粒の種には、すでに今30,60,100という祝福の約束があると言うのです。今もうすでに、その約束のうちにあなたたちは祝福されてあるので、どのような苦境にあろうとも決して希望を失うことはないのだ、ということをイエス・キリストご自身が語っているのです。
イエスの場合は、おそらく、この水平に広がりゆく可能性を神の国によって支えられた楽天性と呼ぶことができるかもしれません。自分という存在が広がりの中で、水平や時間的な広がり、その向こうにある神の国としか呼べない別の世界観につながっているという感覚があるということです。彼岸によって今が確実に支えられているという現実理解です。ここでこそ、自分という存在は、一人ぼっちという孤独ではなく、様々な支えによって何かにつながっているという確信による安心、ここから楽天性は生まれ育つのです。
無謀で、乱暴に思われるかもしれませんが、主イエス・キリストにおいては、熟慮された神の思いが満ちているのです。ここに向かってわたしたちは、信頼を置いていくことができるのです。イエスの楽天性に満ちた言葉があるからこそ、わたしたちは今日という日を感謝し、これまでの歩みに喜びをもって振り返ることができ、明日からの生活に希望を抱くことが赦されている、そのような道筋を主イエス・キリストがたとえという仕方でもって語りかけているのです。
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