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2015年5月24日 (日)

マルコによる福音書 3章31~35節 「聖霊は家族を捉え直す機能をもつ」

  「わたしの母とは誰か、兄弟とは誰か」(3:33)と問いつつ、既成の家族概念に対して疑問符を与え、相対化の宣言をしています。母、兄弟とは、ここにいる群衆なのだと。マルコ福音書では、群衆とは「周りを取り囲んでいる者たち」です。イエスの近くに座る者たちこそが、御心を行う者だ、というのです。つまり、家族や家族のようなものを無化する、ないしは相対化するあり方は、共に座る人であるとされます。「座る」という行為は消極的ではなく、積極的な姿勢であり、行動なのです。イエスはユダヤ風に座って説教します。ですから、座ることは、イエスに従う姿勢だということができます。
 この座るという行為、これについて「隣る人」という造語がヒントになりそうです。児童養護施設「光の子どもの家」を立ち上げた菅原哲男の言葉を引用しながら評論家の芹沢俊介が論じている文章を簡単に紹介します。
【 養護施設で暮らす子どもたちが失ったもっとも切実なものは、家庭的な暮らしの場と家族の関係である。何よりまずその失った場面や関係を保障することが、養護施設の第一義であると菅原は述べる。そして、それを「隣る人」という言葉でとらえ、どんなことがあったとしても、決して断ち切られることなどない人のことだと説明する。何よりも「受け止める人」である。何が出来なくてもいい、居続けること。
 「何もしなくていい」という意味の第一は「居ること」「居続けること」である。「居続けること」は、その人の存在が消えないこと、今日もいたのだから明日もいるであろうことが信じられることだ。このような永続性の感覚は子どもに安心と安定をもたらす。「何もしなくていい」ということの第二の意味は、子どもの前に自分を差し出すことである。自分を差し出さなければ、子どもの表出を受け止めることはできない。子どもの表出を受け止めることは、子どもが子どもの望むように自由に受け止め手を使っていいという意味である。これが「何もしなくていい」ということの第三の意味である。 】
 続けて芹沢は少年事件をいくつかあげ、彼らの家族が「隣る人」となりえていなかったと指摘します。換言すれば、子どもに絶対的に必要なのは家族よりも「隣る人」だと。
 イエスは共に座る(=隣る)ことで家族を相対化しうる視座を与えているのです。周りに座っている一人ひとりを積極的全面的に受け入れ、自らの存在全てを差し出すことによって、見捨てられていない安心感と「生きていていい」「一緒に生きていい」というメッセージを送ります。「周りに座っている人々を見回」す、その眼差しによってわたしたちは一人残らず捉えられてしまっているということです。ここに主イエスの聖霊の働きがあります。

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