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2015年5月17日 (日)

マルコによる福音書 3章20~30節 「イエスの赦しは底が抜ける」

 ここで言う食事とは、2章13~17で描かれているような「徴税人」や「罪人」らとの食卓です。この食卓の意味するところは、イエスの共同体である教会の平安で平和な交わりです。しかし、世間の価値観からすれば「穢れた」ものであったのです。ですから、「一同は食事をする暇もないほど」というのは、教会という安全地帯ではない場所での出来事だということです。
 一人ひとりの<いのち>のかけがえのなさ、尊さを押しつぶし自由を奪い、縛りつける力に悪魔の力を見て、主イエスはこれにNO!を突き付けていきました。一方、ユダヤ教の指導者や権力者たちは、宗教の掟によって差別が行われることで定められる安定の道を尊いと考えたので、主イエスに殺意を抱くほどに社会の秩序を乱す危険人物と見たのです。
 主イエスは、ユダヤ教社会の規範からもローマ社会の規範からも全く自由でした。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(3:28-29)と。ここで言われている「人の子ら」とは人間一般のことを指します。人間は全き自由が与えられた存在なのだ、との宣言です。この自由の前には、どのような教えや戒め、法律も無効である。何を考え、行動か自由だというのです。しかし、注意が必要です。それは29節の解釈に関わってきます。28節では「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と語りながら、「聖霊を冒涜する者」に対しては制限が加えられるとあるからです。
 「聖霊を冒涜する者」は、キリスト者の自由の性質から解釈する必要があります。「食事をする暇もない」状況は、この世に放り出されたキリスト者の立ち居振る舞いが社会ないし家族の中で孤立し、しばしば暴力的に排除される可能性を示すものです。この状況の中でキリスト者は、当時の世界の期待する人間像から外れることによって「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」自由な存在なのだというのです。それほどまでに自由を与えるイエスの赦しは底が抜けているということです。人を殺してもいいのか、盗んでもいいのか、など十戒に関わる悪の問題が関わってきます。主イエスの言葉からすれば、赦されます。自由なのです。しかし、この自由は簡単なものではありません。慎重であるべきです。この点について、マルチン・ルターの『キリスト者の自由』の言葉は示唆に富んでいます。本の冒頭でまず自由について語っています。第一が「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない」。第二が「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している」。対立する内容の緊張の中に、キリスト者の自由は存在するのです。たとえば、「人を殺すほどの自由が与えられていることを自覚している人は殺すことをしない」という発想につながります。
 このイエス・キリストにある底抜けの赦しゆえの自由から開かれる世界観が、わたしたちの前に広げられつつあるのです。

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