マルコによる福音書 3章13~19節 「これと思う人々」
12人を選んだのは、まず「彼らを自分のそばに置くため」(3:14)だというのです。イエスの活動というのは英雄主義によって完結するものではなくて、誰かを必要とする、その関係性の中での運動である、そばにいる人がなければイエスの活動はできないということです。弟子たちが傍に置かれる目的は、「派遣して宣教させ」(3:14)と「悪霊を追い出す権能を持たせるため」(3:15)です。派遣して遣わす。使徒という言葉は「遣わす」を名詞にしたものです。ここで「権能」と訳されている言葉は「力」とも訳せますが、「権威」なのです。イエスが活動を始めた時に「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(1:27)の内容を受けています。イエスのその権威を弟子たちは受け取っていると理解できます。
イエスが自分のそばに置いて、「派遣して宣教させ」(3:14)て、「悪霊を追い出す権能」(3:15)としての新しい教えとしての「権威」を、イエスがなさったことを12人に託されたということです。つまり、「悪霊を追い出す」(3:15)者が本来ならば弟子なのだ。傍にいてイエスに倣う、ないしは真似ぶ生き方をしなさい、それが教会の元なのだ、基本なのだということを述べています。そういう弟子たちが同時に、無理解だというのです。いわゆる12人の弟子たちの理想像、かくあるべしを語りながら、文脈の中では本当のところは無理解の人たちだったということを、その限界を指摘しているのです。神の選びという性質、方向性というものの基本の「き」を押さえておかないと教会は誤った方向に歩んでしまうのだと。
マルコ福音書に描かれた弟子たちは無理解だったわけです。けれども、その無理解を通して理解に至る道がある。つまり知恵とか賢さとかが無化されていく領域の中で、神の招きが輝いていく場所というのが教会なのである。そこでこそ、「派遣して宣教し、悪霊を追い出す権能(権威)」が起こりうる。この世におけるところの構造悪である悪霊の働きに対して闘いを挑んでいくように召されている。神の国の建設の働きに招かれているのは欠けだらけの人、イエスが寄り添った弱りだらけ破れだらけの人間を、そのままでかけがえのないものを仲間として、友として招き、他の誰彼とは交換不可能な尊い人格として招くのです。それぞれの弱さや欠けを持った儚く脆い人たちが、その弱さをもったままでイエス・キリストのあり方を倣う、真似ぶ、そのような共同体として招かれているのです。本来の教会の姿というものを理想にしか過ぎないのだとしても語らずにはおられないマルコによる福音書の証言が、ここにはあるのです。
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