マルコによる福音書 3章1~6節 「手を伸ばしなさい」
主イエスは、活動の最初から、この世のシステムに対して敵対的に振舞いました。社会の仕組みと、安定を願う人々からすれば、主イエスの行動と言葉は、許しがたいものであり、当初から、殺害の意思が起こされる性質のものだったといえます。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(6節)当時のファリサイ派は反ローマであり、ヘロデ派は親ローマであったことを考えると、本来仲間として繋がらない二派が、殺害協力のために走ったのです。イエスという共通の敵の前に同盟を結んだということであり、この記事によって十字架への道行きが先取りされ伏線となっています。
主イエスの癒しの業は、慢性の症状で本人にとっては、一日も早くという思いは当然あったとしても、わざわざ安息日にしなくてはならない、という緊急性を認めることはできません。常識を逆なでするように、主イエスは、癒しを行うのです。権威あるものとして、システムの正当性、常識、相応しさ、合法性、このような「正義」が、命のつながりを、その尊厳を奪い取ることへの抗議を含めながら。主イエスの癒しや悪霊の追い出しは、その人に対して密やかになされてお仕舞い、というものではありません。癒されるべきは、その人にだけあるものではないからです。癒されるべきは、いのちのつながりであり、つながりとしてのいのちです。人は、つながりの中で生きるものだということです。
「真ん中に」とはイエスの守りにあって、あなたはあなたの人生の主人公なのだとの宣言として読むことができるのではないでしょうか?
ここに、教会の希望があるのではないでしょうか。しかし、ファリサイ派のようになることへの恐れも同じに持ちます。どのように受け止めたらよいのでしょうか。命のつながりは、宗教にも国家にもあらゆる権力にも、法にもからめとられることがない、ということです。子どもが歩けるようになった時、「こっちにおいで」と招くと、手を前に突き出し、嬉しそうに歩いてくる姿を思い出すことができるのではないでしょうか。もちろん、いつも同じように真っ直ぐに信頼して、ということはないのかもしれません。癇癪を起したり臍を曲げたりということもあるでしょう。ただ言えることは真ん中に立たされるように導き出され「手を伸ばしなさい」との呼びかけが語られる時、応答には中立的な立場は許されてはいないということです。否応なく導かれ呼び出だされているのです。イエスの呼びかけに応じるようにして自らの手を伸ばすことしかできないということです。つまり、全体としては、今日の聖書の、ここにある「手を伸ばしなさい」との言葉によって開かれる世界への招きも同様なのではないでしょうか。お互いに手を伸べあうことへの招きを受けたいと思うのです。
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