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2015年4月

2015年4月26日 (日)

マルコによる福音書 3章1~6節 「手を伸ばしなさい」

 主イエスは、活動の最初から、この世のシステムに対して敵対的に振舞いました。社会の仕組みと、安定を願う人々からすれば、主イエスの行動と言葉は、許しがたいものであり、当初から、殺害の意思が起こされる性質のものだったといえます。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(6節)当時のファリサイ派は反ローマであり、ヘロデ派は親ローマであったことを考えると、本来仲間として繋がらない二派が、殺害協力のために走ったのです。イエスという共通の敵の前に同盟を結んだということであり、この記事によって十字架への道行きが先取りされ伏線となっています。
 主イエスの癒しの業は、慢性の症状で本人にとっては、一日も早くという思いは当然あったとしても、わざわざ安息日にしなくてはならない、という緊急性を認めることはできません。常識を逆なでするように、主イエスは、癒しを行うのです。権威あるものとして、システムの正当性、常識、相応しさ、合法性、このような「正義」が、命のつながりを、その尊厳を奪い取ることへの抗議を含めながら。主イエスの癒しや悪霊の追い出しは、その人に対して密やかになされてお仕舞い、というものではありません。癒されるべきは、その人にだけあるものではないからです。癒されるべきは、いのちのつながりであり、つながりとしてのいのちです。人は、つながりの中で生きるものだということです。
 「真ん中に」とはイエスの守りにあって、あなたはあなたの人生の主人公なのだとの宣言として読むことができるのではないでしょうか?
 ここに、教会の希望があるのではないでしょうか。しかし、ファリサイ派のようになることへの恐れも同じに持ちます。どのように受け止めたらよいのでしょうか。命のつながりは、宗教にも国家にもあらゆる権力にも、法にもからめとられることがない、ということです。子どもが歩けるようになった時、「こっちにおいで」と招くと、手を前に突き出し、嬉しそうに歩いてくる姿を思い出すことができるのではないでしょうか。もちろん、いつも同じように真っ直ぐに信頼して、ということはないのかもしれません。癇癪を起したり臍を曲げたりということもあるでしょう。ただ言えることは真ん中に立たされるように導き出され「手を伸ばしなさい」との呼びかけが語られる時、応答には中立的な立場は許されてはいないということです。否応なく導かれ呼び出だされているのです。イエスの呼びかけに応じるようにして自らの手を伸ばすことしかできないということです。つまり、全体としては、今日の聖書の、ここにある「手を伸ばしなさい」との言葉によって開かれる世界への招きも同様なのではないでしょうか。お互いに手を伸べあうことへの招きを受けたいと思うのです。

2015年4月19日 (日)

マルコによる福音書 2章23~28節 「自由を求めて」

 今日の聖書から伺える景色は、イエスとその一行が麦畑を歩いているその途上で、弟子たちが無具の穂をつんで口にした(ちょうどガムを噛むような感じ)ことがきっかけでファリサイ派から非難されたということです。イエスの自由な振る舞いに対する「ためにする議論」だと考えられます。
 「法は人間のために定められたものであって、人間が法のためにあるのではない」生き方をキリスト者に提示する主イエスは続く28節で「だから、人の子は安息日の主でもある。」と語ります。この世の悪魔的勢力に対して、罪の赦しをもって闘う主イエスは権威ある新しい教えなのです。そういう主イエスの宣言です。その人をかけがえのないものとして、生かし、喜びを回復しようとする主イエスの歩みは、すなわち、ご自身は苦しみの道を歩むことに他なりません。「苦難の僕」である「人の子」なのだ、そういうことです。この主の歩み寄りにおいて、わたしたちは、主イエスの十字架を掲げる教会として召されているのです。
 このようなイエスの生き方は当時の常識や価値観からすれば政治犯と判断されたでしょうし、神を神とせず呪うものとして断罪されて当然です。十字架による処刑に相応しいと判断されるべきことだったのでしょう。いわば、イエスはアウトローであり無法者だと断罪されたのでした。
 しかし、イエスの場合、単純な意味で「法は破るためにある」と考えていたわけではありません。マルコによる福音書を最初から読んで気が付くのは、イエスがどこを向いていたかです。当時の価値観、意味づけの中で、徴税人、罪人、汚れた者として社会からはじかれている一人ひとりの<いのち>のかけがえのなさに対する慈しみです。寄り添う気持ちです。あなたの<いのち>は、今生かされているだけで何ものにも代えがたく輝くべく存在なのだという宣言です。排除され、疎外された<いのち>への底なしの愛と呼んでも良いかもしれません。そのためであれば、法を犯すことも敢えて行うという立場なのです。<いのち>のためであれば犯罪者としての烙印を押されることを恐れないのです。
 イエスの立ち居振る舞いは<いのち>の全面的肯定を主イエスは闘い、歩んでくださり、また今も歩んでくださっているのですから、倣う者として後からついていくように召されていることを確認しましょう。

2015年4月12日 (日)

マルコによる福音書 2章18~22節 「新しい事態へ」

 断食は、公的にも私的にも旧約以来の宗教儀礼でした。乱暴に言えば、衣食が足りている人たちの宗教的贅沢と呼んでいいと思います。断食にも様々ありましたが、ここでの断食とは、わたしたちの多くが考えるような食べないことを何日も行うということではなくて、日の出から日没までの間、飲まず食わずを続けるという宗教儀礼です。太陽が出ていない間の飲み食いは、許されているのです。極端に言えば、大宴会も可能なのです。
 宴会の喜ばしさを支える禁欲的な側面である断食を、主の弟子たる教会が軽視することへの批判が起こったのです。主イエスの周りにいた人々、主イエスのもとにやってくる人々、そして主イエス自身、そのような断食という宗教儀礼に意味を見出すことも行う余裕もなかったと考えるのが自然です。イエスとその仲間たち、罪人呼ばわりされている人たちの多くは、慢性的な失業中であり、臨時雇い、日雇いで、ほそぼそと暮らすほかなかったのではないでしょうか。安息日だ、断食だ、などとは言ってはいられないし、律法も守れるはずもないのです。その日一日の仕事にありつけるのは、運がいい方で、実際は食べる物が充分ではなくて、慢性的な断食が強いられていたでしょうから、宗教的儀礼としての断食などとは無縁であったと考えられます。そのような生活の中で、なんとか仕事にありつくことができた人たちが、仕事にあぶれた人たちと共にわずかばかりのパンを分け合って食卓を囲む。今日一日のパンをくれ、そう神に祈りながら暮らしている人たちの現実に主の食卓は寄り添うものです。イエスの食卓の場面は、このあたりの生活の切なさにある。この切なさを喜びだ、と宣言したのも主の食卓の特徴です。食うや食わずの暮らしを強いられている人々にとって、断食など、いつもやっていること、何を言うか、この食卓は結婚式の宴会なんだぞ、と見栄を切って見せた。当時の律法解釈では、結婚式の宴会は断食の強制が及ばないことになっていたからです。
 「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない」ということは当時の人々、あるいは酒作りをする人々には当たり前のことなのですが、理由は簡単です。ここでの「新しい酒」とは、まだまだ発酵が続いていて、炭酸ガスが発生し、この炭酸ガスの力は古い皮袋ではおさえきれない、ということです。やがて引き裂くことになる。新しい酒が古い皮袋を引き裂く、さらには布を引き裂くイメージ、これは、主イエスの十字架の物語につながります。イエスが息を引き取られた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたという記事です。古い社会を引き裂く力をもっていた主イエスを信じる者として、わたしたちも今、発酵途上にあると考えたいと思います。平和、いいかえれば神の国を覆い隠す幕を引き裂く力、それは暴力からは生まれないと信じますが、わたしたちは、平和へと醸しだす群れとして、今日ここに呼ばわれているのではないでしょうか。ここから「新しい事態」へ招かれ始めるのです。

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