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2015年4月19日 (日)

マルコによる福音書 2章23~28節 「自由を求めて」

 今日の聖書から伺える景色は、イエスとその一行が麦畑を歩いているその途上で、弟子たちが無具の穂をつんで口にした(ちょうどガムを噛むような感じ)ことがきっかけでファリサイ派から非難されたということです。イエスの自由な振る舞いに対する「ためにする議論」だと考えられます。
 「法は人間のために定められたものであって、人間が法のためにあるのではない」生き方をキリスト者に提示する主イエスは続く28節で「だから、人の子は安息日の主でもある。」と語ります。この世の悪魔的勢力に対して、罪の赦しをもって闘う主イエスは権威ある新しい教えなのです。そういう主イエスの宣言です。その人をかけがえのないものとして、生かし、喜びを回復しようとする主イエスの歩みは、すなわち、ご自身は苦しみの道を歩むことに他なりません。「苦難の僕」である「人の子」なのだ、そういうことです。この主の歩み寄りにおいて、わたしたちは、主イエスの十字架を掲げる教会として召されているのです。
 このようなイエスの生き方は当時の常識や価値観からすれば政治犯と判断されたでしょうし、神を神とせず呪うものとして断罪されて当然です。十字架による処刑に相応しいと判断されるべきことだったのでしょう。いわば、イエスはアウトローであり無法者だと断罪されたのでした。
 しかし、イエスの場合、単純な意味で「法は破るためにある」と考えていたわけではありません。マルコによる福音書を最初から読んで気が付くのは、イエスがどこを向いていたかです。当時の価値観、意味づけの中で、徴税人、罪人、汚れた者として社会からはじかれている一人ひとりの<いのち>のかけがえのなさに対する慈しみです。寄り添う気持ちです。あなたの<いのち>は、今生かされているだけで何ものにも代えがたく輝くべく存在なのだという宣言です。排除され、疎外された<いのち>への底なしの愛と呼んでも良いかもしれません。そのためであれば、法を犯すことも敢えて行うという立場なのです。<いのち>のためであれば犯罪者としての烙印を押されることを恐れないのです。
 イエスの立ち居振る舞いは<いのち>の全面的肯定を主イエスは闘い、歩んでくださり、また今も歩んでくださっているのですから、倣う者として後からついていくように召されていることを確認しましょう。

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