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2015年4月12日 (日)

マルコによる福音書 2章18~22節 「新しい事態へ」

 断食は、公的にも私的にも旧約以来の宗教儀礼でした。乱暴に言えば、衣食が足りている人たちの宗教的贅沢と呼んでいいと思います。断食にも様々ありましたが、ここでの断食とは、わたしたちの多くが考えるような食べないことを何日も行うということではなくて、日の出から日没までの間、飲まず食わずを続けるという宗教儀礼です。太陽が出ていない間の飲み食いは、許されているのです。極端に言えば、大宴会も可能なのです。
 宴会の喜ばしさを支える禁欲的な側面である断食を、主の弟子たる教会が軽視することへの批判が起こったのです。主イエスの周りにいた人々、主イエスのもとにやってくる人々、そして主イエス自身、そのような断食という宗教儀礼に意味を見出すことも行う余裕もなかったと考えるのが自然です。イエスとその仲間たち、罪人呼ばわりされている人たちの多くは、慢性的な失業中であり、臨時雇い、日雇いで、ほそぼそと暮らすほかなかったのではないでしょうか。安息日だ、断食だ、などとは言ってはいられないし、律法も守れるはずもないのです。その日一日の仕事にありつけるのは、運がいい方で、実際は食べる物が充分ではなくて、慢性的な断食が強いられていたでしょうから、宗教的儀礼としての断食などとは無縁であったと考えられます。そのような生活の中で、なんとか仕事にありつくことができた人たちが、仕事にあぶれた人たちと共にわずかばかりのパンを分け合って食卓を囲む。今日一日のパンをくれ、そう神に祈りながら暮らしている人たちの現実に主の食卓は寄り添うものです。イエスの食卓の場面は、このあたりの生活の切なさにある。この切なさを喜びだ、と宣言したのも主の食卓の特徴です。食うや食わずの暮らしを強いられている人々にとって、断食など、いつもやっていること、何を言うか、この食卓は結婚式の宴会なんだぞ、と見栄を切って見せた。当時の律法解釈では、結婚式の宴会は断食の強制が及ばないことになっていたからです。
 「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない」ということは当時の人々、あるいは酒作りをする人々には当たり前のことなのですが、理由は簡単です。ここでの「新しい酒」とは、まだまだ発酵が続いていて、炭酸ガスが発生し、この炭酸ガスの力は古い皮袋ではおさえきれない、ということです。やがて引き裂くことになる。新しい酒が古い皮袋を引き裂く、さらには布を引き裂くイメージ、これは、主イエスの十字架の物語につながります。イエスが息を引き取られた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたという記事です。古い社会を引き裂く力をもっていた主イエスを信じる者として、わたしたちも今、発酵途上にあると考えたいと思います。平和、いいかえれば神の国を覆い隠す幕を引き裂く力、それは暴力からは生まれないと信じますが、わたしたちは、平和へと醸しだす群れとして、今日ここに呼ばわれているのではないでしょうか。ここから「新しい事態」へ招かれ始めるのです。

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コメント

花崎の著書は前任地で必要に駆られて読んだことがあります。高については1冊か2冊しか読んだことはありません。いずれにしても、わたしの場合は政治的立場よりも中身を大切にしたいと思っています。

「生活」と「理屈」の関係って難しいですよね。「生活」が先なのか「理屈」が先なのかって卵と鶏の話に似てきますね。わたしもインテリっぽい言葉遣いをすると言われていたことを思い出しました。牧師ってどこか「理屈」によって「生活」を縛ってしまう癖があるのですよね。反省です。

精神的に不安定なのですか?
前にも書いたことがありますが、「主の祈り」や祈りによって自己相対化がなされていけば、きっと大丈夫だと信じています。インスタントな答えではなくて、答えに辿り着く過程を大切にしてくださいね。

追加です。
精神的に不安定で生活が難しかったり、苦痛があり取り除きたい場合は医者に行ってください。
この欄に書くのが難しければ、お電話くださっても大丈夫ですよ。

ありがとうございます。また今度電話させていただきますね。
ところで、昨日書いてしまったコメントですが、自分でも後悔している部分が多いので、削除お願いできますか?もうしわけありません。せっかくいただいたお返事も削除となると、申し訳ないのですが……。
最終的には金芝河さんの「飯」を紹介していただけるなど、とても良いお返事をいただけたので、迷ったのですが、先生が公の場としてお使いになっているページに乱暴な書き方をしてしまったことを後悔しております。素直にそう思っております。ごめんなさい。
傷ついたとかそういうことではありません。むしろ励まされましたので、どうか気にされませんように……。

4月24日(金)と25日(土)前半のコメントを全部削除しました。

お忙しい中、お手数をおかけしました。ありがとうございます。

「切なくてあたたかい食卓」のお話がとても良かったので、過剰反応してしまったのだと思います。

明日のお説教頑張ってください。

ご配慮ありがとうございます。
只今、パソコンと格闘中です。

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