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2015年3月

2015年3月15日 (日)

マルコによる福音書 1章35~39節 「祈りに支えられて」

 キリスト者の生活は、まず祈りによって支えられるものですが、実際にはなかなか実行することが難しいことです。しかし、わたしたちの祈りにおける、自信の無さとか不甲斐なさに今日の聖書は何かしらを語りかけているのだと思います。
 今日の聖書では、4人の弟子たちによってイエスは貴重な祈りの時間が途中で止めさせられます。祈っている最中に「やめ」「ストップ」と声がかけられてしまったのです。これからの伝道活動を展開し、方向を定めるための祈りです。そのような大切な祈りが中断されるということは、通常は苦痛であったり、中途半端なやり残し感が残るのではないでしょうか? しかし、イエスの場合、ゲッセマネの祈りもそうですが、たとえ祈りの途中で中断されることがあっても、やり残し感を引きずっていない点に注目する必要がありそうです。中断されるまでの<今>という時において、全てを注ぎ込むような祈りであれば、中断されても全幅の信頼を寄せて祈る一瞬があれば大丈夫、そこには真実があるということです。聞かれているという安心感と平安に深いところで支えられているからこそ、そこで祈られた祈りが中断されても、やり残し感を引きずらなかったということなのです。特に、祈りにおけるやり残し感があると言葉ばかりが多くなり、<今ここで>自分が神の守りのただ中にあることを忘れがちです。<今>という時、この一瞬に自分の全てを賭けている生き方がここにはあるのです。
 <今ここで>の祈りが一瞬でも在るという支え、全幅の信頼を寄せるべき方に守られている実感の中での祈り。これさえ確かであれば、次にどのように、どこに導かれ連れていかれようとも大丈夫、イエスの祈りが中断されても、弟子たちに追い回されるようにしても大丈夫なのは、すでに祈られた祈りによって支えられているからです。
 このように祈ることは難しいのかもしれません。わたしたちの努力や訓練では及ばないでしょう。しかし、今日の聖書の知らせるところは、どのように不十分で言葉を尽くすことができず、中途半端に見える祈りであったとしても、聞いていてくださる方が確かであれば、何一つ心配はいらないということを主イエス・キリスト自らが示してくださっていることに他なりません。わたしたちの祈りの声は小さく、みすぼらしく、惨めで情けなく、どこか中途半端なやり残し感を引きずっているのかもしれません。しかし、聞き届けてくださっている方が確かであれば、心配は必要ないのです。祈りは聴かれているのです。祈る前から聞かれているといっても良いかもしれません。だからこそ、どんな祈りでも導かれるのです。祈りの生活を<今>のこととして新たに始めていきましょう。祈りは、<今>聴かれているからこそ、安心と平安のもとで何度でも新たに歩み始めることが赦され、導かれていることを信じることができるのです。

2015年3月 8日 (日)

マルコによる福音書 1章29~34節 「イエスに応えていく」

 イエスとその一行が、シモンとアンデレ兄弟の家に行くと、しゅうとめが熱を出していたので、手を取って起こして癒やしたという話です。これはただ単にイエスが病気を治したということに留まらないのではないかと思います。癒されて「彼女は一同をもてなした」とあります。この翻訳を読む限りでは、癒されたお礼に一同に食事を振る舞った、という風に読めます。しかし、「もてなした」と訳されている言葉を直訳すると「仕えた」となります。奉仕の原型がここにはあるわけです。イエスによって癒された者は、その応答として「仕える」「奉仕」に召される、そうせざるを得ないようにされていくのだということです。
 自分の連れ合いの親との関係は往々にして難しいものです。そういう難しい問題をなんとか整えていく可能性を「奉仕」ということによって暗示しているのではないでしょうか?つまり、イエスが癒した、それに対してシモンのしゅうとめが一同に奉仕することによって、そこにいる人間関係がもっと生き生きとしたものになっていく可能性がある、ということを、この短い聖書の記事は示そうとしているのではないでしょうか?奉仕というのは、イエスという神奉仕と同時に横の人間関係同士の奉仕ということによって、今一度人間の関係の配置を変換し、よりワクワクする、より生き生きとする、奉仕をして喜んでいけるようなあり方を作り出そうとするのです。
 悪霊を追い出すことも熱を下げることと同様です。人間関係やしがらみ、慣習や責任、そういった状態に囚われて身動きが取れなくなっている、その人の状態。目に見ることのできない縄や鎖を断ち切る行為が、悪霊を追い出す行為なのです。それによって自由を得た人は応答として奉仕していく、つまり、人間関係の配置換えが行われたことによって楽になったことを、今度はそれを展開していくことができるということです。絶えずわたしたちは新しい人間関係を作りだしていくという奉仕の可能性に対して開かれているのだと認めていくことができるということです。
 イエスという神が奉仕者として受肉されたという出来事、身代わりとしてその身をささげるという奉仕、よみがえられたという奉仕、天に昇られてこの世を支配しておられるという奉仕、これらの奉仕によって支えられて、わたしたちは礼拝という仕方で神奉仕を行う。そして同時に教会の交わりという奉仕があります。イエス・キリストの奉仕が真であるならば、わたしたちの神奉仕という礼拝、そして共同体の横の交わりとしての奉仕、それがより豊かにされていく可能性にいつだって開かれているからです。

2015年3月 1日 (日)

マルコによる福音書 1章21~28節 「教えとしての奇跡」

 マルコによる福音書の理解に従えば、奇跡とは教えであり、教えとは奇跡です。中身を相補う事柄だとされています。
 主イエスの奇跡は、生命を貶めるあり方・社会に対する無効宣言です。それが奇跡による悪霊、穢れた霊を追い出す行為なのです。わたしたちの社会の様々な暗黙の縛り・断罪の圧力、すなわち黙契はすでに、天が破られるようにして、主イエスが無効にしてくださったということです。彼らの権威ではなく、主イエスの権威において、教会は主に相応しい振る舞いを模索せよ、と。マルコ福音書が、わたしたちに伝えたい願いです。
 「権威」はイエスだけに閉じられたものではない、というのがマルコ福音書の課題です。主イエスに従う者もまた、主イエスの故にのみ、主イエスの思いに適う時のみ、その権威を手渡され、その「権威」の使用が認められるということです。ただし、ここについては、注意深くしないと、自分たちを神のごとくしてしまう誘惑に陥る危険があります。
 さて、その「権威」を与えられた者たちの歩みとは、どのようなものか。ヒントは10章35節以下の記事にあります。ヤコブとヨハネが、主の栄光を受けられる時一人を右に一人を左に、と願い、他の10人が怒った(他の10人も同じく、右に、左に、と願った)エピソードです。この時の主の言葉に注目したいと思います。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
 仕えるということ、ここに主イエスの権威があるということです。この仕えていく姿勢、それは、人を生かし、お互いに生かしあっていく道、一人の生命全体を喜びとし、喜び合える関係の創出、ここに教会の課題があるということです。前提は、主イエス・キリストのみがすべての基準であり、中身であるという信仰です。その時々の黙契の中での最良の事柄を神とするのではなく、黙契一切は、すでに神の子イエス・キリストの福音のはじめにおいて、無効とされてしまっているということからしか、信仰も教会も始まらないのだということです。
 マルコ福音書の「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」に絶えず立ち返りながら、黙契を相対化しつつ歩むこと、それが現代に生きるわたしたちの、弟子としての歩みです。主イエス・キリストの権威があり、主の思い、御心に適うところの信じて従う人々に、主の権威は手渡されるのです。わたしたちは、主イエス・キリストにふさわしいでしょうか。
 主の思いが、この場におよび「権威ある新しい教え」が今日回復されていることを信じ、祈りつつ歩みましょう。

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