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2015年3月 8日 (日)

マルコによる福音書 1章29~34節 「イエスに応えていく」

 イエスとその一行が、シモンとアンデレ兄弟の家に行くと、しゅうとめが熱を出していたので、手を取って起こして癒やしたという話です。これはただ単にイエスが病気を治したということに留まらないのではないかと思います。癒されて「彼女は一同をもてなした」とあります。この翻訳を読む限りでは、癒されたお礼に一同に食事を振る舞った、という風に読めます。しかし、「もてなした」と訳されている言葉を直訳すると「仕えた」となります。奉仕の原型がここにはあるわけです。イエスによって癒された者は、その応答として「仕える」「奉仕」に召される、そうせざるを得ないようにされていくのだということです。
 自分の連れ合いの親との関係は往々にして難しいものです。そういう難しい問題をなんとか整えていく可能性を「奉仕」ということによって暗示しているのではないでしょうか?つまり、イエスが癒した、それに対してシモンのしゅうとめが一同に奉仕することによって、そこにいる人間関係がもっと生き生きとしたものになっていく可能性がある、ということを、この短い聖書の記事は示そうとしているのではないでしょうか?奉仕というのは、イエスという神奉仕と同時に横の人間関係同士の奉仕ということによって、今一度人間の関係の配置を変換し、よりワクワクする、より生き生きとする、奉仕をして喜んでいけるようなあり方を作り出そうとするのです。
 悪霊を追い出すことも熱を下げることと同様です。人間関係やしがらみ、慣習や責任、そういった状態に囚われて身動きが取れなくなっている、その人の状態。目に見ることのできない縄や鎖を断ち切る行為が、悪霊を追い出す行為なのです。それによって自由を得た人は応答として奉仕していく、つまり、人間関係の配置換えが行われたことによって楽になったことを、今度はそれを展開していくことができるということです。絶えずわたしたちは新しい人間関係を作りだしていくという奉仕の可能性に対して開かれているのだと認めていくことができるということです。
 イエスという神が奉仕者として受肉されたという出来事、身代わりとしてその身をささげるという奉仕、よみがえられたという奉仕、天に昇られてこの世を支配しておられるという奉仕、これらの奉仕によって支えられて、わたしたちは礼拝という仕方で神奉仕を行う。そして同時に教会の交わりという奉仕があります。イエス・キリストの奉仕が真であるならば、わたしたちの神奉仕という礼拝、そして共同体の横の交わりとしての奉仕、それがより豊かにされていく可能性にいつだって開かれているからです。

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