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2015年3月 1日 (日)

マルコによる福音書 1章21~28節 「教えとしての奇跡」

 マルコによる福音書の理解に従えば、奇跡とは教えであり、教えとは奇跡です。中身を相補う事柄だとされています。
 主イエスの奇跡は、生命を貶めるあり方・社会に対する無効宣言です。それが奇跡による悪霊、穢れた霊を追い出す行為なのです。わたしたちの社会の様々な暗黙の縛り・断罪の圧力、すなわち黙契はすでに、天が破られるようにして、主イエスが無効にしてくださったということです。彼らの権威ではなく、主イエスの権威において、教会は主に相応しい振る舞いを模索せよ、と。マルコ福音書が、わたしたちに伝えたい願いです。
 「権威」はイエスだけに閉じられたものではない、というのがマルコ福音書の課題です。主イエスに従う者もまた、主イエスの故にのみ、主イエスの思いに適う時のみ、その権威を手渡され、その「権威」の使用が認められるということです。ただし、ここについては、注意深くしないと、自分たちを神のごとくしてしまう誘惑に陥る危険があります。
 さて、その「権威」を与えられた者たちの歩みとは、どのようなものか。ヒントは10章35節以下の記事にあります。ヤコブとヨハネが、主の栄光を受けられる時一人を右に一人を左に、と願い、他の10人が怒った(他の10人も同じく、右に、左に、と願った)エピソードです。この時の主の言葉に注目したいと思います。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
 仕えるということ、ここに主イエスの権威があるということです。この仕えていく姿勢、それは、人を生かし、お互いに生かしあっていく道、一人の生命全体を喜びとし、喜び合える関係の創出、ここに教会の課題があるということです。前提は、主イエス・キリストのみがすべての基準であり、中身であるという信仰です。その時々の黙契の中での最良の事柄を神とするのではなく、黙契一切は、すでに神の子イエス・キリストの福音のはじめにおいて、無効とされてしまっているということからしか、信仰も教会も始まらないのだということです。
 マルコ福音書の「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」に絶えず立ち返りながら、黙契を相対化しつつ歩むこと、それが現代に生きるわたしたちの、弟子としての歩みです。主イエス・キリストの権威があり、主の思い、御心に適うところの信じて従う人々に、主の権威は手渡されるのです。わたしたちは、主イエス・キリストにふさわしいでしょうか。
 主の思いが、この場におよび「権威ある新しい教え」が今日回復されていることを信じ、祈りつつ歩みましょう。

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