マルコによる福音書 1章12~13節 「誘惑から守られて」
「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」しかし、13節後半を読むと、次のようにあります「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。この「おられたが」の「が」は、対立する事柄を込めた「しかし」という意味合いで訳してありますが、同時にという意味合いでの「そして」とか「また」というほうがいいようです。その最中ずうっと至福の時であったということです。つまり、荒れ野での40日間は、サタンから誘惑されていたが、至福の時、自己肯定に満ち足りていた、ということです。さらに言えば、幸せな「引きこもり青年の主イエスの姿」がここにあるということです。だからこそ、ガリラヤでの活動で、悪霊を追い払い、罪がすでに赦されてしまっていることを、高らかに宣言できたのではないでしょうか。
主イエスご自身の「誘惑の中での守り」の記事によって知らされるのは、ただ主イエスだけにおいてのことではありません。主イエス自らが誘惑の中にあってさえ守られていたことによって、この物語がわたしたち教会に向かっても手渡されているのだということです。
一言で「誘惑」とまとめることは難しいのですが、わたしたちもまた、様々な状況の中で誘惑に直面してしまうことが少なからずあるのです。ただ、ここでの誘惑は表面的で薄っぺらなものではなくて、その人の生涯の進むべき方向性あるいは基本的な人格のありように関わる事柄だと判断すべきです。何故なら、この後の記事から主イエスの公の活動の宣言がなされていくのですから。
とすると、人が生涯を賭けてでも決断しなければならない課題というもの、それが主イエスにおいて既に解決済みだということになります。故に誘惑の中で悩む中にも、主イエスの誘惑の中での守りによって支えられているということへと導かれていくはずです。
主イエスにおいて解決済みであることを根拠にしているからこそ、わたしたちに襲いかかってくる誘惑に対峙しうる力が備えられていることを信じることが赦されているということです。ここにこそ幸いがあるのです。誘惑とは、この世の価値観に溺れていくことであり、いかにして抵抗しうるのかが課題となります。とりわけ今、このときの日本社会でいきるわたしたちは大きな誘惑と向かい合っています。
誘惑のただ中で守られている主イエスの姿は、わたしたちのあり方を支えるものです。どんなに状況に希望が見いだせず絶望に陥りそうになるときでも、主イエスのあの姿を思い浮かべることができれば大丈夫だというメッセージの迫りを受けることができるのです。その上で、お互いに祈り合い、支えあっていきたいと願います。
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