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2015年1月

2015年1月25日 (日)

マルコによる福音書 1章12~13節 「誘惑から守られて」

 「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」しかし、13節後半を読むと、次のようにあります「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。この「おられたが」の「が」は、対立する事柄を込めた「しかし」という意味合いで訳してありますが、同時にという意味合いでの「そして」とか「また」というほうがいいようです。その最中ずうっと至福の時であったということです。つまり、荒れ野での40日間は、サタンから誘惑されていたが、至福の時、自己肯定に満ち足りていた、ということです。さらに言えば、幸せな「引きこもり青年の主イエスの姿」がここにあるということです。だからこそ、ガリラヤでの活動で、悪霊を追い払い、罪がすでに赦されてしまっていることを、高らかに宣言できたのではないでしょうか。
 主イエスご自身の「誘惑の中での守り」の記事によって知らされるのは、ただ主イエスだけにおいてのことではありません。主イエス自らが誘惑の中にあってさえ守られていたことによって、この物語がわたしたち教会に向かっても手渡されているのだということです。
 一言で「誘惑」とまとめることは難しいのですが、わたしたちもまた、様々な状況の中で誘惑に直面してしまうことが少なからずあるのです。ただ、ここでの誘惑は表面的で薄っぺらなものではなくて、その人の生涯の進むべき方向性あるいは基本的な人格のありように関わる事柄だと判断すべきです。何故なら、この後の記事から主イエスの公の活動の宣言がなされていくのですから。
 とすると、人が生涯を賭けてでも決断しなければならない課題というもの、それが主イエスにおいて既に解決済みだということになります。故に誘惑の中で悩む中にも、主イエスの誘惑の中での守りによって支えられているということへと導かれていくはずです。
 主イエスにおいて解決済みであることを根拠にしているからこそ、わたしたちに襲いかかってくる誘惑に対峙しうる力が備えられていることを信じることが赦されているということです。ここにこそ幸いがあるのです。誘惑とは、この世の価値観に溺れていくことであり、いかにして抵抗しうるのかが課題となります。とりわけ今、このときの日本社会でいきるわたしたちは大きな誘惑と向かい合っています。
 誘惑のただ中で守られている主イエスの姿は、わたしたちのあり方を支えるものです。どんなに状況に希望が見いだせず絶望に陥りそうになるときでも、主イエスのあの姿を思い浮かべることができれば大丈夫だというメッセージの迫りを受けることができるのです。その上で、お互いに祈り合い、支えあっていきたいと願います。

2015年1月18日 (日)

マルコによる福音書 1章9~11節 「イエスの洗礼」

 イエスが洗礼を受けられたのは自らの遜りにおいてなされたものです。主イエスには悔い改めるべき罪はないのですから。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:42-45)とあるように、仕えていく、僕となっていく、そのあり方が主イエス・キリストが洗礼者ヨハネから受けた洗礼の意味合いなのです。
 わたしたちが受ける洗礼について言えば、主イエス・キリストが、その遜り、従順、僕となっていく、仕えていく、そのあり方として、代理として洗礼を受けられたということに基づいてのみ、意義があるわけです。極端に言えば、イエス・キリストは、わたしたち洗礼を受けようと受けまいと、あるいはまた、わたしたちが主イエス・キリストの生涯について無関心であり、なにも知ろうとしない、そういう願いさえ持たないとしても関係ありません。主イエスがすでにあの時、わたしたち全てのために、その苦しみの道、苦難と死の洗礼を受けられてしまっているからです。主イエス・キリストはすべての人の代理として洗礼を受けられた、そのように聖書は告げています。
 水による洗礼が牧師を介して行われますが、それは応答です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」である、という仕方で、神のみ心に適う生涯を主イエス・キリストは遂げられていくわけです。その遂げられていく姿は苦難の道においてしか示されない栄光のキリストであって、その方に対して「これに聞け」と示されていることに対する応答として洗礼があるのです。
 イエス・キリスト、その方を通して理解されるならば、洗礼というのはスタートラインの決意であり、出発であり、信仰の表明ないしは告白であるわけです。さらに言えば祈りです。わたしたちが、イエス・キリストにおいて恵まれてしまっている、贖われてしまっている、洗礼を授けられてしまっている感謝の祈り、それがイエス・キリストという方に向かって、その目標を洗礼によって設定されていることを認めていく作業でしょう。
 洗礼の意味をキリスト中心に考えていくと、教会の行う洗礼の業はあくまで応答なのです。既に与えられていることに関して感謝していく、祈っていく、このような意味において洗礼は人を救うのです。

2015年1月11日 (日)

マルコによる福音書 1章2~8節 「先駆者」 

 決定的な方が登場する時にはエリヤが来ると信じられ、その役割を担っているのが洗礼者ヨハネであるとされます。ヨハネはイナゴと野蜜を食べ、厳しい禁欲的な生活をすることによって神の怒りを免れ、悔い改めの洗礼を宣教していたということです。ユダヤ教というものの根底から問う預言者であったのです。義人と罪人と分かち、義人は救われると考えていた当時のユダヤ教社会で、誰一人として裁きから免れることができないという説教をしながら洗礼を授けていたわけです。しかし、これも突き詰めていけば、結局同じ構図を持ってしまうのです。ヨハネのもとに来て悔い改めの洗礼を受ければ、それで裁きから免れることができるのか、という疑問が生まれてきます。また、ヨハネの倫理の厳格主義からすればヘロデ王の結婚にまつわる事柄はスキャンダルに映るわけで、ヨハネは王たちを非難していき、最終的には首をはねられて殺されます。これはイエスの死の先駆けでもあります。
 ヨハネは、自分は先駆けであって、後から来る備えの声である、と告げます。「主の道」とあります。道というのは点ではなくて線ですから、イエスの全生涯を表わしているのです。イエスの生涯を整えるための先駆者として洗礼者ヨハネは、誰一人として裁きから免れることはできないという説教をしていきました。イエスも一時期一緒にいて洗礼を受けているのですが、イエスの場合は洗礼者ヨハネの活動、信仰というものをさらに突き詰めていくのです。すると対照的な活動になってきます。活動の場がまず違ってきます。ヨハネは人里離れた荒れ野に行き、イエスは里に入って行くのです。洗礼者ヨハネの活動は誰一人として裁きから逃れることができないというものでしたが、イエスの場合は誰一人として赦しから免れることができないという、そういう活動なのです。
 根源的な、自分で気づくことができないような罪という事態、これが裁かれるということが先行するのではなくて、むしろ、赦される、赦されてしまっているということによって初めて罪の認識ができ、罪の赦しを希うことができるような、そういう筋道が立てられていく、それこそが「イエス・キリストの福音」です。そして、「イエス・キリストの福音の初め」というところに洗礼者ヨハネは先駆者として立たされているのです。ですから、誰も裁きから免れないと宣べた洗礼者ヨハネは、逆説的に誰一人としてイエス・キリストにおける赦しから免れることはできないというイエス・キリストへの道を備える者です。わたしたちが自らの生活をイエス・キリストに委ねながら歩んでいくことができるという、そのような道筋がこれから始まるということです。

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