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2015年1月18日 (日)

マルコによる福音書 1章9~11節 「イエスの洗礼」

 イエスが洗礼を受けられたのは自らの遜りにおいてなされたものです。主イエスには悔い改めるべき罪はないのですから。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:42-45)とあるように、仕えていく、僕となっていく、そのあり方が主イエス・キリストが洗礼者ヨハネから受けた洗礼の意味合いなのです。
 わたしたちが受ける洗礼について言えば、主イエス・キリストが、その遜り、従順、僕となっていく、仕えていく、そのあり方として、代理として洗礼を受けられたということに基づいてのみ、意義があるわけです。極端に言えば、イエス・キリストは、わたしたち洗礼を受けようと受けまいと、あるいはまた、わたしたちが主イエス・キリストの生涯について無関心であり、なにも知ろうとしない、そういう願いさえ持たないとしても関係ありません。主イエスがすでにあの時、わたしたち全てのために、その苦しみの道、苦難と死の洗礼を受けられてしまっているからです。主イエス・キリストはすべての人の代理として洗礼を受けられた、そのように聖書は告げています。
 水による洗礼が牧師を介して行われますが、それは応答です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」である、という仕方で、神のみ心に適う生涯を主イエス・キリストは遂げられていくわけです。その遂げられていく姿は苦難の道においてしか示されない栄光のキリストであって、その方に対して「これに聞け」と示されていることに対する応答として洗礼があるのです。
 イエス・キリスト、その方を通して理解されるならば、洗礼というのはスタートラインの決意であり、出発であり、信仰の表明ないしは告白であるわけです。さらに言えば祈りです。わたしたちが、イエス・キリストにおいて恵まれてしまっている、贖われてしまっている、洗礼を授けられてしまっている感謝の祈り、それがイエス・キリストという方に向かって、その目標を洗礼によって設定されていることを認めていく作業でしょう。
 洗礼の意味をキリスト中心に考えていくと、教会の行う洗礼の業はあくまで応答なのです。既に与えられていることに関して感謝していく、祈っていく、このような意味において洗礼は人を救うのです。

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