マルコによる福音書 1章2~8節 「先駆者」
決定的な方が登場する時にはエリヤが来ると信じられ、その役割を担っているのが洗礼者ヨハネであるとされます。ヨハネはイナゴと野蜜を食べ、厳しい禁欲的な生活をすることによって神の怒りを免れ、悔い改めの洗礼を宣教していたということです。ユダヤ教というものの根底から問う預言者であったのです。義人と罪人と分かち、義人は救われると考えていた当時のユダヤ教社会で、誰一人として裁きから免れることができないという説教をしながら洗礼を授けていたわけです。しかし、これも突き詰めていけば、結局同じ構図を持ってしまうのです。ヨハネのもとに来て悔い改めの洗礼を受ければ、それで裁きから免れることができるのか、という疑問が生まれてきます。また、ヨハネの倫理の厳格主義からすればヘロデ王の結婚にまつわる事柄はスキャンダルに映るわけで、ヨハネは王たちを非難していき、最終的には首をはねられて殺されます。これはイエスの死の先駆けでもあります。
ヨハネは、自分は先駆けであって、後から来る備えの声である、と告げます。「主の道」とあります。道というのは点ではなくて線ですから、イエスの全生涯を表わしているのです。イエスの生涯を整えるための先駆者として洗礼者ヨハネは、誰一人として裁きから免れることはできないという説教をしていきました。イエスも一時期一緒にいて洗礼を受けているのですが、イエスの場合は洗礼者ヨハネの活動、信仰というものをさらに突き詰めていくのです。すると対照的な活動になってきます。活動の場がまず違ってきます。ヨハネは人里離れた荒れ野に行き、イエスは里に入って行くのです。洗礼者ヨハネの活動は誰一人として裁きから逃れることができないというものでしたが、イエスの場合は誰一人として赦しから免れることができないという、そういう活動なのです。
根源的な、自分で気づくことができないような罪という事態、これが裁かれるということが先行するのではなくて、むしろ、赦される、赦されてしまっているということによって初めて罪の認識ができ、罪の赦しを希うことができるような、そういう筋道が立てられていく、それこそが「イエス・キリストの福音」です。そして、「イエス・キリストの福音の初め」というところに洗礼者ヨハネは先駆者として立たされているのです。ですから、誰も裁きから免れないと宣べた洗礼者ヨハネは、逆説的に誰一人としてイエス・キリストにおける赦しから免れることはできないというイエス・キリストへの道を備える者です。わたしたちが自らの生活をイエス・キリストに委ねながら歩んでいくことができるという、そのような道筋がこれから始まるということです。
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