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2014年12月

2014年12月28日 (日)

使徒言行録 11章19-~26節 「教会の使命」 

 アンティオキア教会でイエス・キリストを信じる者たち自らクリスチャンだと名乗ったということはどういうことなのでしょうか。きっかけはステファノの事件をどのように理解するのか、だったのではないでしょうか。「さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。」(6:8)という活動の中で裁判にかけられ、激昂した人々に殺されてしまいます。ステファノの死から自分たちとは何者かと問う中からクリスチャンと自称するようになったと読めます。ステファノの「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(使徒7:59)との言葉はイエスの「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)を倣っています。わたしたちもまたイエスに倣って生きるように招かれてしまっているのだということ、これを自覚し自己吟味しながら歩んでいくのがクリスチャンなのだと。そこで、あなたたちは一体どうなのか?このように問われているのです。教会の使命とは何か、というを問うこと、それを自己吟味することへと招かれた共同体にこそ教会の使命はあるのです。明確な答えがあるわけではないし、明確なプログラムがあるわけでもない。だけれども、それをパウロ的に言えば、まだ手に入れていないものに向かって手を伸ばし続ける感覚とでも言えばいいのでしょうか。身を乗り出していくような態度で追求し続けていくところに教会の使命があろうかと思います。
 この建物はこれで一定の役割を終えるわけですが、この古い建物を壊し、そして新しい建物を建てながら、本当のところ十字架を掲げる教会とは何なのか、クリスチャンとは何なのか、ということを今一度問い返す。つまり、イエスに倣う、イエスの生き方に従っていく、そのあり方を問い続けていく人たちをクリスチャンと呼ぶのです。
 イエスに倣うとかイエスのように生きることは、確かに難しいことだと思います。イエス・キリストという方を栄光の中に当てはめて神々しいものとして拝むほうが余程楽です。だけれども、泥にまみれ汗にまみれた泥臭い生き方をした、あのイエスに従っていくのが、クリスチャンだろうと思います。
 ただたんに教会の建物だけを新しくしても何の意味もありません。クリスチャンというものが、そもそも現代において、どういう生き方をするものであり、どのような志をもって生きるのか、そしてどのように祈っていくのか、どのように聖書を読んでいくのか、このような問いの前から逃げないことです。それが教会に与えられているところの現代的な使命ではなかろうかと今日の聖書から聞くのです。

2014年12月24日 (水)

ルカによる福音書 2章8~20節 「人間の尊厳の回復としてクリスマス」

 「恐れるな。」この言葉は羊飼いたちへの、もう一度新しく喜んで生きて行くことができるという祝福です。嫌われ、差別され、辛く淋しい思いをしている人々のところに告げられた言葉なのです。本当は、誰も嫌われたりしてはいけないし、疎まれてもいけない、誰もが大切な神の子どもなのだということの回復をすべての人に告げ知らせるためにこそ、イエスはやってきました。
 聖書の神からの「恐れるな」は安易な言葉ではありません。臭いものに蓋、のように厳しい現実から逃避するというようなことではありません。今日の聖書では、この言葉の前に「主の栄光が周りを照らしたので」とあります。神が、わたしたちにその身を向けられる時、「主の栄光が周りを照ら」すことによって、わたしたちの日常生活は、いわば、暴露されてしまうのです。自分たちの姿が、光によって照らし出されてしまい、明らかにされる時、日常に隠されている、あらゆる醜い事柄がすべてさらされてしまうということです。そこで、わたしたちは、自分たちを守るために、恐れを生じさせてしまうのです。しかし、だからこそ、ここで聞かれるべきは「恐れるな」なのです。「恐れるな」ということを、わたしたちは、わたしたちの力や努力では、現実化することができません。あくまで、神からしか引き起こされないからです。
 ひとたび神からのお告げとして、「恐れるな」という言葉が語られたからには、その責任を神ご自身が負ってくださるのです。恐れるな、という言葉を神ご自身が身に引き受けてくださるからこそ、語られる言葉なのです。
 「恐れるな」との語りかけを受けた安心感は、自分自身への肯定感ともなるでしょうし、他者との関係性を結果として変えていく力となるでしょう。共にお互いの生命を喜び、平安のうちに生きるようにとの促しがクリスマスの祝福に包まれているのです。仲間であり友である存在。それが飼い葉桶に寝かされている幼な子イエスだと、心の中で共鳴するかにかしらの確信が起こったのではないでしょうか?
 クリスマスの中心的なメッセージのひとつは「あなたは見捨てられてはいない」ということです。あなたのために救い主が生まれた。その救い主は、羊飼いたちと同じように社会の最底辺に生まれて、彼らと同じようにあらゆる苦しみを嘗め、最後は十字架に架けられて一生を終わった方である。苦しみが核となる生涯を通して証しされたのは「どんなに苦しいときにも、神が共にいて下さる」(インマヌエル)ということです。どんな時にも共にいてくださる救い主が、あなたのために生まれた。だから、「恐れるな!」という言葉を聞くことが赦されるのです。誰一人として余計者にされてはない。一人ひとりの丸ごとの命は尊く、交換不可能である。このような自尊感情の復権の宣言を読み取ることができるのです。
 言いかえれば、人間の尊厳の回復としてクリスマスを祝うことが赦されているということです。わたしたちがクリスマスを祝うのは、このために他ならないのです。

2014年12月 7日 (日)

フィリピ2:12-18「喜んで待て」

 12節「だから」とは、直前に記されているキリスト賛歌の内容を受けています。つまり、神が神を捨てることで、人となり、この100パーセント人となった方こそが、100パーセント神である、ということです。このキリストに生涯をかけて従うことへの促しをパウロは告げているのです。
 「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。この勧告を導き出しているのは13節の「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」という言葉です。福音自身の前進、この働きがまず先にあるということです。この神の側からの働きかけを根拠に「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」とパウロは勧告しているのです。この言葉は、前半と後半に分けて、前半に重きを置きながら読みたいところです。「恐れおののき」とは神に対して自分を主張することができない人間の現実をわきまえ、自分で自分の救いを確保し、作り出し、達成することなど、そもそもできない事実に圧倒されることです。一見矛盾するようですが、この上で、自分の救いの達成、作り出すことへと歩むのです。
 全面的に神により頼みつつ、自分たちのありようの自己検証を含む信仰の道を歩むということです。それは、この世において暫定的な存在として、旅人の教会であるということです。しかも、パウロの場合、終末論を捨てていませんから、教会員みんなで走ってしまうイメージを保持しているのです。これに先行するのは、のろのろ歩くイメージです。奴隷の民イスラエルがエジプトをモーセによって率いられて歩む旅です。教会が、この世に存在することが旅であると理解されるのは、このイメージを保持しているからです。「不平」は旅の途中で起こってきます。新共同訳の「不平」は口語訳では「つぶやき」と訳されています。エジプトを脱出したものの水や食べ物のことなどについて不平不満を口にしてしまうイスラエルの民の姿が、出エジプト記には記されています。
 教会の信仰は、かつてのイスラエルの躓きをも乗り越える可能性に満ちています。イエス・キリストの福音自身が、前進する、この神への信頼と、信頼ゆえの自立のことです。このバランスの妙によっているのです。このバランスが崩れると教会は信仰を失ってしまう危険に陥るのです。
 パウロの「喜ぶ」という言葉の使い方は順説として人間の側の都合の良い点に関してではありません。彼の生涯を思い起こすならば、あらゆる艱難のただ中において、あえて主の恵みを感謝して「喜ぶ」という態度なのです。飼い葉桶の主イエスを透かして観て取れるのは明らかに十字架です。余計者とされる中に生まれ、殺されていく。この主イエスの誕生を待ち望むことは、だからこそ、あえて喜んで待つことに他なりません。

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