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2014年12月24日 (水)

ルカによる福音書 2章8~20節 「人間の尊厳の回復としてクリスマス」

 「恐れるな。」この言葉は羊飼いたちへの、もう一度新しく喜んで生きて行くことができるという祝福です。嫌われ、差別され、辛く淋しい思いをしている人々のところに告げられた言葉なのです。本当は、誰も嫌われたりしてはいけないし、疎まれてもいけない、誰もが大切な神の子どもなのだということの回復をすべての人に告げ知らせるためにこそ、イエスはやってきました。
 聖書の神からの「恐れるな」は安易な言葉ではありません。臭いものに蓋、のように厳しい現実から逃避するというようなことではありません。今日の聖書では、この言葉の前に「主の栄光が周りを照らしたので」とあります。神が、わたしたちにその身を向けられる時、「主の栄光が周りを照ら」すことによって、わたしたちの日常生活は、いわば、暴露されてしまうのです。自分たちの姿が、光によって照らし出されてしまい、明らかにされる時、日常に隠されている、あらゆる醜い事柄がすべてさらされてしまうということです。そこで、わたしたちは、自分たちを守るために、恐れを生じさせてしまうのです。しかし、だからこそ、ここで聞かれるべきは「恐れるな」なのです。「恐れるな」ということを、わたしたちは、わたしたちの力や努力では、現実化することができません。あくまで、神からしか引き起こされないからです。
 ひとたび神からのお告げとして、「恐れるな」という言葉が語られたからには、その責任を神ご自身が負ってくださるのです。恐れるな、という言葉を神ご自身が身に引き受けてくださるからこそ、語られる言葉なのです。
 「恐れるな」との語りかけを受けた安心感は、自分自身への肯定感ともなるでしょうし、他者との関係性を結果として変えていく力となるでしょう。共にお互いの生命を喜び、平安のうちに生きるようにとの促しがクリスマスの祝福に包まれているのです。仲間であり友である存在。それが飼い葉桶に寝かされている幼な子イエスだと、心の中で共鳴するかにかしらの確信が起こったのではないでしょうか?
 クリスマスの中心的なメッセージのひとつは「あなたは見捨てられてはいない」ということです。あなたのために救い主が生まれた。その救い主は、羊飼いたちと同じように社会の最底辺に生まれて、彼らと同じようにあらゆる苦しみを嘗め、最後は十字架に架けられて一生を終わった方である。苦しみが核となる生涯を通して証しされたのは「どんなに苦しいときにも、神が共にいて下さる」(インマヌエル)ということです。どんな時にも共にいてくださる救い主が、あなたのために生まれた。だから、「恐れるな!」という言葉を聞くことが赦されるのです。誰一人として余計者にされてはない。一人ひとりの丸ごとの命は尊く、交換不可能である。このような自尊感情の復権の宣言を読み取ることができるのです。
 言いかえれば、人間の尊厳の回復としてクリスマスを祝うことが赦されているということです。わたしたちがクリスマスを祝うのは、このために他ならないのです。

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