« レビ記 23章33~43節 「収穫感謝に思いを寄せる」 | トップページ | ルカによる福音書 2章8~20節 「人間の尊厳の回復としてクリスマス」 »

2014年12月 7日 (日)

フィリピ2:12-18「喜んで待て」

 12節「だから」とは、直前に記されているキリスト賛歌の内容を受けています。つまり、神が神を捨てることで、人となり、この100パーセント人となった方こそが、100パーセント神である、ということです。このキリストに生涯をかけて従うことへの促しをパウロは告げているのです。
 「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。この勧告を導き出しているのは13節の「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」という言葉です。福音自身の前進、この働きがまず先にあるということです。この神の側からの働きかけを根拠に「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」とパウロは勧告しているのです。この言葉は、前半と後半に分けて、前半に重きを置きながら読みたいところです。「恐れおののき」とは神に対して自分を主張することができない人間の現実をわきまえ、自分で自分の救いを確保し、作り出し、達成することなど、そもそもできない事実に圧倒されることです。一見矛盾するようですが、この上で、自分の救いの達成、作り出すことへと歩むのです。
 全面的に神により頼みつつ、自分たちのありようの自己検証を含む信仰の道を歩むということです。それは、この世において暫定的な存在として、旅人の教会であるということです。しかも、パウロの場合、終末論を捨てていませんから、教会員みんなで走ってしまうイメージを保持しているのです。これに先行するのは、のろのろ歩くイメージです。奴隷の民イスラエルがエジプトをモーセによって率いられて歩む旅です。教会が、この世に存在することが旅であると理解されるのは、このイメージを保持しているからです。「不平」は旅の途中で起こってきます。新共同訳の「不平」は口語訳では「つぶやき」と訳されています。エジプトを脱出したものの水や食べ物のことなどについて不平不満を口にしてしまうイスラエルの民の姿が、出エジプト記には記されています。
 教会の信仰は、かつてのイスラエルの躓きをも乗り越える可能性に満ちています。イエス・キリストの福音自身が、前進する、この神への信頼と、信頼ゆえの自立のことです。このバランスの妙によっているのです。このバランスが崩れると教会は信仰を失ってしまう危険に陥るのです。
 パウロの「喜ぶ」という言葉の使い方は順説として人間の側の都合の良い点に関してではありません。彼の生涯を思い起こすならば、あらゆる艱難のただ中において、あえて主の恵みを感謝して「喜ぶ」という態度なのです。飼い葉桶の主イエスを透かして観て取れるのは明らかに十字架です。余計者とされる中に生まれ、殺されていく。この主イエスの誕生を待ち望むことは、だからこそ、あえて喜んで待つことに他なりません。

« レビ記 23章33~43節 「収穫感謝に思いを寄せる」 | トップページ | ルカによる福音書 2章8~20節 「人間の尊厳の回復としてクリスマス」 »

フィリピの信徒への手紙」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: フィリピ2:12-18「喜んで待て」:

« レビ記 23章33~43節 「収穫感謝に思いを寄せる」 | トップページ | ルカによる福音書 2章8~20節 「人間の尊厳の回復としてクリスマス」 »

無料ブログはココログ