使徒言行録 11章19-~26節 「教会の使命」
アンティオキア教会でイエス・キリストを信じる者たち自らクリスチャンだと名乗ったということはどういうことなのでしょうか。きっかけはステファノの事件をどのように理解するのか、だったのではないでしょうか。「さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。」(6:8)という活動の中で裁判にかけられ、激昂した人々に殺されてしまいます。ステファノの死から自分たちとは何者かと問う中からクリスチャンと自称するようになったと読めます。ステファノの「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(使徒7:59)との言葉はイエスの「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)を倣っています。わたしたちもまたイエスに倣って生きるように招かれてしまっているのだということ、これを自覚し自己吟味しながら歩んでいくのがクリスチャンなのだと。そこで、あなたたちは一体どうなのか?このように問われているのです。教会の使命とは何か、というを問うこと、それを自己吟味することへと招かれた共同体にこそ教会の使命はあるのです。明確な答えがあるわけではないし、明確なプログラムがあるわけでもない。だけれども、それをパウロ的に言えば、まだ手に入れていないものに向かって手を伸ばし続ける感覚とでも言えばいいのでしょうか。身を乗り出していくような態度で追求し続けていくところに教会の使命があろうかと思います。
この建物はこれで一定の役割を終えるわけですが、この古い建物を壊し、そして新しい建物を建てながら、本当のところ十字架を掲げる教会とは何なのか、クリスチャンとは何なのか、ということを今一度問い返す。つまり、イエスに倣う、イエスの生き方に従っていく、そのあり方を問い続けていく人たちをクリスチャンと呼ぶのです。
イエスに倣うとかイエスのように生きることは、確かに難しいことだと思います。イエス・キリストという方を栄光の中に当てはめて神々しいものとして拝むほうが余程楽です。だけれども、泥にまみれ汗にまみれた泥臭い生き方をした、あのイエスに従っていくのが、クリスチャンだろうと思います。
ただたんに教会の建物だけを新しくしても何の意味もありません。クリスチャンというものが、そもそも現代において、どういう生き方をするものであり、どのような志をもって生きるのか、そしてどのように祈っていくのか、どのように聖書を読んでいくのか、このような問いの前から逃げないことです。それが教会に与えられているところの現代的な使命ではなかろうかと今日の聖書から聞くのです。
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