フィリピの信徒への手紙 3章20~21節 「また会えるよ、きっと」(永眠者記念日)
「本国は天にある」とは、生きているものも死んでいる者も、共にその丸ごとの生命が天によって支えられているということです。永遠の相において、生も死も神のもとでしっかりと受け止められているという事実です。
「天」に属する者は、この世の価値観の延長線上にはないのです。遺された者の責任は、58節前半にあるように「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」ということなのです。かつて共に<いのち>に与っていたところの、お一人おひとりを記憶し、記念する責任を負っていく務めに専念することが大切なのです。
しかし、わたしたちには「天」、「天国」の具体的な姿を思い描くことはできません。分かっているのは、天は神の絶対的な支配のもとにある、ということです。今、わたしたちの生きる、こちら側の世界は争いや憎しみがはびこっています。それらはすべて人間によるものです。このような「欠け」のあるわたしたち人間には、想像することもできないところ、それが「天」です。「天」ないし「天国」、その在り様は「神がご存知です」と語るパウロの言葉を素直にそのまま受け入れたい、と思います。
パウロが、「本国は天にある」と語ったのは、眠りについているものも、ここにこうして生きているものも、天によって結ばれた存在であることを踏まえてのことです。やがて来るべき再会が主イエスによって保証されているということなのです。
であるなら、わたしたち、今、生きているものは、生きているという責任において、眠っている人々との関係を、育て、整えていくことがゆるされているということではないでしょうか。ここから分かるのはつまり、わたしたちの手の届かない「天」、「天国」があり、「また会えるよ、きっと」という約束に生きることは、かつての関係が神のもとで育てられ変えられていくものだ、ということです。
故人への憎しみや怒りを胸に抱えているもおられるかもしれません。しかし、その憎しみや怒りの感情の記憶さえ、変えられる、このように信じていいのです。
わたしたちが、かつて共に<いのち>に与っていた、お一人お一人への思いは、記憶において整えられていくに違いないと、わたしは、信じています。生きているものも眠っている者も、共にその丸ごとの生命が天によって支えられているということです。ここには、「本国は天にある」という事実に支えられた「ゆるし」が、磔の主イエスにおいて実現されていることを覚え、祈りましょう。
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コメント
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いのちの結ばれの文章も早急にお願いします!
投稿: | 2014年11月17日 (月) 19時02分
明日までにはお願いします!
投稿: | 2014年11月17日 (月) 19時17分
申し訳ありません。
もうしばらくお待ちください。
11月24日(月)までにはアップします。
投稿: 原 宝 | 2014年11月18日 (火) 16時57分
コメント欄に簡単に書いてもらえませんか?
投稿: | 2014年11月18日 (火) 18時29分
説教要約に興味を持ってくださっているのですね。
ありがとうございます。
ペトロに示された三度にわたる幻。これはいわゆるユダヤ教の「食物規定」の止揚だろうと、わたしは読み取りました。レビ記11章とか17章をご覧くださいますか?「清い」と「汚れた」が厳密に区別されています。しかし、ペトロに示された幻においては神の創造されたものはすべて「清い」のだ、というのです。神の示された「清さ」の価値観において、それぞれが今まで培ってきた「清さ」の価値観(自分のもっている正しさかもしれません)を相対化して歩んでいけるのかという問いが、ここにはあるのです。したがって、自らのアイデンティティを相対化しうる視座に立てば、多文化・多民族共生の方向への示唆が与えられるはずだ、まだ教会は途上にいて迷ったり悩んだりするかもしれません。でも、到着できるはずだとの約束が語られているのです。ここに希望を見出すものには幸いが用意されているのです。いのちの結ばれとは、このようにして始まるのではないでしょうか?
とりあえず、簡単に書いておきましたが、お答えになりましたでしょうか?
投稿: 原 宝 | 2014年11月18日 (火) 19時30分
とても役に立ちました!
本当にありがとうございます!
投稿: | 2014年11月18日 (火) 19時41分
10年前のお説教なのですね。この10年の間に、わたしたち家族は、ピクサーの『リメンバー・ミー』という映画を観たことがあります。とても感動し、涙したのですが、天国のお話というよりも、「人の記憶と死」についてのお話でした。もうすぐ父が癌で亡くなるので、わたしが生まれる前に死んだ祖父の記憶は消し去られ、祖父は「人の記憶としての二度目の死」を迎えます。そのことを息子と思い出し「じゃあ、昔の人で農民だったりして、歴史にも名を残さず死んでしまった人はどうなるのか?」という話になりました。「東条英機は悪いやつでも名を残した。だけど朝鮮半島から家族と無理矢理別れさせられ、連れてこられて死んだ人は?路上生活をしていて、家族が顔を見に来ることもなく死んで行った人たちは?」など。よく『そのような人たちほど天国に行く』とわたしたちは言いますが、彼らを放っておきながら、そんな綺麗事が言えるのか?と反省させられました。このコメントは、このお説教に対するものではなく、原先生の他の説教も読んだ上でのコメントです。失礼いたしました。
投稿: Emiko | 2023年9月27日 (水) 18時57分
先ほどの続きです。くどくてすみません。わたしはこれまで、というより、今でも、「天はこの世にある」という認識ができていません(その認識も勘違いかもしれないのですが)「天国は行くもの」と思ってしまうのです。でも、この世で虐げられている人たちが地獄のような思いをしているのを放置して、「彼らはきっと天国に『行く』だろう」というのは無責任だと思いました。(自戒を込めて)苦しめられる人たちがいない世界、これが『地上に天国を』という理解でよろしいのでしょうか。
投稿: Emiko | 2023年9月27日 (水) 19時21分