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2014年11月

2014年11月23日 (日)

レビ記 23章33~43節 「収穫感謝に思いを寄せる」

 仮庵の祭りは、カナンでの定住と農耕生活が前提とされていますから、牧畜民から農耕民への移行の中で、いわゆる土着の収穫を祝う祭りをユダヤ教に取り入れたものだろうと推察できます。
 定住し農耕民になったユダヤの民にとっても、たわわに実るブドウなどの果物やオリーブの収穫は興奮さえも覚えるような時だったでしょう。酒船に収穫したブドウを入れ、足で踏みつぶし発酵させ葡萄酒を作ったり、オリーブの実を絞って油にしたり、漬物にしたり、それはハレの場であったでしょう。
 今日、わたしたちが心に留めておきたいことは、祭りの賑やかさや喜ばしさなどの雰囲気とか感情の面についてではありません。収穫を感謝し、思いを寄せるところの根拠についてです。レビ記では、次のように考えています。収穫感謝である仮庵の祭りの根拠は、出エジプトおよび土地取得をもたらした神の働きにあるということです。出エジプトあってこその定住と収穫であることをわきまえるようにとのレビ記の主張が、ここにはあります(23:41-43)。つまり、一見、収穫を感謝するお祭りも、エジプトでの奴隷の民イスラエルが解放されたという出来事を導く神への感謝が先立つし、根拠であるということです。収穫感謝は解放へ向かう祭りとして祝われるべきだという判断がレビ記にはあるのです。
 一言で解放といっても漠然として理解しがたいですが、解放の出来事としてのイエスの振る舞いや言葉から再解釈されるべきことです。自由への解放の中で感謝をもって収穫を祝うように、飲み食いする自由さや、楽天性に立ち返ることです。確かに、収穫に至るまで農民は禁欲的に毎日朝から晩まで働きます。しかし、神こそがすべてであるから働くようにして仕えるのだという謙虚さへの立ち返りが求められているのです。
 ルカによる福音書ではイエスが烏と野原の花を示して思い煩うなとの楽観性について語っています(ルカ12:22-34)。神に任せつつ、解放への道を歩む楽観性がここにあります(この点については『改訂版こどもさんびか』102、または金芝河の『飯が天です』参照)。さて、本日、わたしたちの教会でささげられた米は桜本教会の働きにささげられます。桜本教会についていは、カトリック新聞の去年の一月末の記事から引用します。

 鈴木牧師が、神奈川県川崎市の日本基督教団桜本教会で取り組んでいる「共生」へのチャレンジについて話を聞いた。桜本教会の日曜日は、朝から大忙しだ。100人近くが集う礼拝には、さまざまな民族の信者や、障がい者、路上生活者など、生活状況や文化が違う老若男女が数多くやってくる。この教会では、障がい者や路上生活者は大切な役割を担っている。重度の知的障がいがある人も、礼拝の献身(献金)の担当者として祈る。自分の思いを言葉にできない自閉症やダウン症の信者を祈りに導く人もいる。野宿者の多くは、物品の配布等を行う。礼拝後の楽しみは、礼拝堂で行われる昼食会。婦人会のメンバーがそれぞれ1品(100人分)ずつ持ち寄るため、テーブルには、毎回7品以上のおかずが並べられる。教会に集う〝大家族〟として食卓を囲むのだ。この昼食会は、毎週木曜日にも行われる。鈴木牧師がこうした取り組みを始めたのは、桜本教会の主任である妻の藤原繁子牧師と、「誰もが排除されない教会」を理想に掲げたからだ。

 桜本教会の働きは非常に珍しいチャレンジかもしれません。どこの教会でもできることではありません。しかし、桜本教会が理想に掲げた「誰もが排除されない教会」は、そのまま「誰もが排除されない社会」につながるものであり、そしてそれは、イエスの目指した解放に他なりません。仮庵の祭りとしての収穫感謝を解放へと位置付けるものであることは理解できます。
 この桜本教会の働きにつながる仕方で米をささげ、来るべき日の神の国に向かう教会の働きとしての収穫感謝をご一緒に祝えることを感謝しつつ、祈りましょう。

<祈り>

すべてものに命をもたらし、大地を恵み、慈しみにおける全能の神
あなたの主権が固くされますように
わたしたちは今日、あなたの恵みの前に感謝をもって向かっています
わたしたちの気づかないところにまで至る心の闇としての罪の赦しを願います
収穫感謝に心を寄せるひとときによって、あなたの主イエス・キリストの信仰において、わたしたち一人ひとりを整えてください
感謝することを忘れがちになるときにこそ、感謝する心を備えてください
ここの米が桜本教会の働きを通して神の栄光をあらわすことができますように
この地上から飢えによる苦しみがなくなりますように
神の国での食卓をわたしたち一人ひとりの心に刻んでください
あなたの思いがなりますように主イエス・キリストの御名によって祈ります                                         アーメン

2014年11月16日 (日)

使徒言行録 10章1~16節 「いのちの結ばれ」 

 今日の聖書の前提には食物規定があります。とりわけレビ記11章や17章などにある「清いもの」と「汚れたもの」の厳格な区別です。清い食べ物を食べていることは正しいユダヤ人であるということの一つの証しであるわけで、汚れたものを食べると汚れてしまうのです。この食物規定が無効とされたという神の側から示された宣言が、今日の箇所です。今まで自分の培ってきた生き方が絶えず開かれていくということが、イエスが開いた世界観なのだということなのです。
 分け隔てがなされている民族性を超えていく、その根拠がイエス・キリストなのだということです。たとえば「日本人である」という枠を、相対化しながら暮らしていくことによって、多文化・多民族共生の世界観を教会が示していくことができる可能性を、今日のテキストは示していると思います。
 キリスト教徒は、イエス・キリストによって新しく生きる道が用意されていることを信じていると思います。イエスに倣って生きるということは、自らの価値観、そして自らの中にある憎悪というものさえもえぐり出して見つめる、そのような視点に立て、ということです。自己相対化なしにキリスト教信仰はあり得ないということです。
 ペトロが問われているのは、「あなたはどうか?」「あなたは一体どのような仕方で誰と何を食べるようにして生きていくのか?」。ユダヤ教徒という枠の中で生きていくのか、あるいは他の民族・宗教・違いのある人たちと繋がっていく可能性を模索するつもりがあるのかどうかと、この四隅を吊るされた布に示される全世界を見せて決断を迫っているのが今日のテキストです。
 わたしたちは、それぞれの育ちによって、それぞれの志向や好み、色々な価値観を持っています。でも、それがいったい何なのか、それがどこから来ているのか、ということを今一度、考え、模索し、追求してみることが大事です。それが祈りによって支えられていくときに、何か新しいものが生まれてくるに違いないと思います。その中で初めて、共感する、共鳴する、そのような<いのち>に気づくのではないでしょうか?
 ペトロに示された幻は、神の創造されたものはすべて「清い」のだ、というのです。神の示された「清さ」の価値観において、それぞれが今まで培ってきた「清さ」の価値観(あるいは「正しさ」)を相対化して歩んでいけるのかという問いが、ここにはあるのです。したがって、自らのアイデンティティを相対化しうる視座に立てば、多文化・多民族共生の方向への示唆が与えられるはずだ、まだ教会は途上にいて迷ったり悩んだりするかもしれないけれど、到着できるはずだ、との約束が語られているのです。ここに希望を見出すものには幸いが用意されているのです。いのちの結ばれとは、このようにして始まるのではないでしょうか?

2014年11月 2日 (日)

フィリピの信徒への手紙 3章20~21節 「また会えるよ、きっと」(永眠者記念日)

 「本国は天にある」とは、生きているものも死んでいる者も、共にその丸ごとの生命が天によって支えられているということです。永遠の相において、生も死も神のもとでしっかりと受け止められているという事実です。
 「天」に属する者は、この世の価値観の延長線上にはないのです。遺された者の責任は、58節前半にあるように「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」ということなのです。かつて共に<いのち>に与っていたところの、お一人おひとりを記憶し、記念する責任を負っていく務めに専念することが大切なのです。
 しかし、わたしたちには「天」、「天国」の具体的な姿を思い描くことはできません。分かっているのは、天は神の絶対的な支配のもとにある、ということです。今、わたしたちの生きる、こちら側の世界は争いや憎しみがはびこっています。それらはすべて人間によるものです。このような「欠け」のあるわたしたち人間には、想像することもできないところ、それが「天」です。「天」ないし「天国」、その在り様は「神がご存知です」と語るパウロの言葉を素直にそのまま受け入れたい、と思います。
 パウロが、「本国は天にある」と語ったのは、眠りについているものも、ここにこうして生きているものも、天によって結ばれた存在であることを踏まえてのことです。やがて来るべき再会が主イエスによって保証されているということなのです。
 であるなら、わたしたち、今、生きているものは、生きているという責任において、眠っている人々との関係を、育て、整えていくことがゆるされているということではないでしょうか。ここから分かるのはつまり、わたしたちの手の届かない「天」、「天国」があり、「また会えるよ、きっと」という約束に生きることは、かつての関係が神のもとで育てられ変えられていくものだ、ということです。
 故人への憎しみや怒りを胸に抱えているもおられるかもしれません。しかし、その憎しみや怒りの感情の記憶さえ、変えられる、このように信じていいのです。
 わたしたちが、かつて共に<いのち>に与っていた、お一人お一人への思いは、記憶において整えられていくに違いないと、わたしは、信じています。生きているものも眠っている者も、共にその丸ごとの生命が天によって支えられているということです。ここには、「本国は天にある」という事実に支えられた「ゆるし」が、磔の主イエスにおいて実現されていることを覚え、祈りましょう。

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