使徒言行録 10章1~16節 「いのちの結ばれ」
今日の聖書の前提には食物規定があります。とりわけレビ記11章や17章などにある「清いもの」と「汚れたもの」の厳格な区別です。清い食べ物を食べていることは正しいユダヤ人であるということの一つの証しであるわけで、汚れたものを食べると汚れてしまうのです。この食物規定が無効とされたという神の側から示された宣言が、今日の箇所です。今まで自分の培ってきた生き方が絶えず開かれていくということが、イエスが開いた世界観なのだということなのです。
分け隔てがなされている民族性を超えていく、その根拠がイエス・キリストなのだということです。たとえば「日本人である」という枠を、相対化しながら暮らしていくことによって、多文化・多民族共生の世界観を教会が示していくことができる可能性を、今日のテキストは示していると思います。
キリスト教徒は、イエス・キリストによって新しく生きる道が用意されていることを信じていると思います。イエスに倣って生きるということは、自らの価値観、そして自らの中にある憎悪というものさえもえぐり出して見つめる、そのような視点に立て、ということです。自己相対化なしにキリスト教信仰はあり得ないということです。
ペトロが問われているのは、「あなたはどうか?」「あなたは一体どのような仕方で誰と何を食べるようにして生きていくのか?」。ユダヤ教徒という枠の中で生きていくのか、あるいは他の民族・宗教・違いのある人たちと繋がっていく可能性を模索するつもりがあるのかどうかと、この四隅を吊るされた布に示される全世界を見せて決断を迫っているのが今日のテキストです。
わたしたちは、それぞれの育ちによって、それぞれの志向や好み、色々な価値観を持っています。でも、それがいったい何なのか、それがどこから来ているのか、ということを今一度、考え、模索し、追求してみることが大事です。それが祈りによって支えられていくときに、何か新しいものが生まれてくるに違いないと思います。その中で初めて、共感する、共鳴する、そのような<いのち>に気づくのではないでしょうか?
ペトロに示された幻は、神の創造されたものはすべて「清い」のだ、というのです。神の示された「清さ」の価値観において、それぞれが今まで培ってきた「清さ」の価値観(あるいは「正しさ」)を相対化して歩んでいけるのかという問いが、ここにはあるのです。したがって、自らのアイデンティティを相対化しうる視座に立てば、多文化・多民族共生の方向への示唆が与えられるはずだ、まだ教会は途上にいて迷ったり悩んだりするかもしれないけれど、到着できるはずだ、との約束が語られているのです。ここに希望を見出すものには幸いが用意されているのです。いのちの結ばれとは、このようにして始まるのではないでしょうか?
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