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2014年10月

2014年10月26日 (日)

出エジプト記 34章8~9節 「支えあって生きるため」

 今日はNCC教育部のキリスト教教育週間の「平和のきずな」のプログラムを参考にし、「アライカパ友の会」の紹介がありました。フィリピンにおける経済的な貧困という大きな苦しみの中での活動についてです。大きな問題とは豊かさの平等な分かち合いがないということです。貧しさは人を不幸にします。貧しさを乗り越えていくこと。これは、フィリピンだけでなく、世界中の大切な課題です。この貧しさを乗り越えて、喜んで安心して生きていく国の仕組みが変えられなくてはなりませんが、簡単なことではありません。大勢の人たちの努力や祈り、願いが大切です。それだけではなくて、イエス・キリストの神さまがどのように願っているのか、という思いを受け止めたいと思います。
 出エジプト記に描かれているのは、エジプトにおける奴隷の民イスラエルが自由を求める脱出の旅のテーマです。モーセは、何度もファラオと交渉を重ね、ようやくイスラエルの民を脱出させることができましたが、目的地に到着するまでさらに40年の旅を続けなくてはなりませんでした。この旅も楽ではありません。水や食べ物などのことで不平や不満が起こったり、神を裏切ることもしてしまいます。
 それでも、神は決して見捨てることはしないのです。今日の聖書の言葉は、モーセが今までのことを振り返りながら、これからのことを神に願っている言葉です。もう一度読んでみましょう「主よ、私たちの中にあって進んでください」。この言葉は、モーセの時代だけの祈りではありません。世界中の辛く苦しい人たちの祈りでもあります。
 今日はフィリピンの片隅での出来事から学びました。シスター4人の活動から始まった支援は今、大きな輪となり、また地域に住む人々も、自立への道を歩み始めています。これらのことの前にまず、神の思いが前進するのです。その神の思いを信じるからこそ祈ることができるのです。「主よ、私たちの中にあって進んでください。」と。
 喜んで安心して暮らせる社会。毎日きちんと食べられる社会。心豊かに暮らせる社会。神の守りがあれば、きっと大丈夫。そんな祈りが主の祈りにもあります。最初の「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。」は、神が神として神であってください、ということです。神の思いが成ることを信じていますという意味です。その続きは「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」です。この地上が神様の思いに溢れ、すべての人が喜んで安心して生きられる国、世界になりますように、生きるため必要なものをください、との祈りです。「主よ、私たちの中にあって進んでください。」との御言葉を心に刻みましょう。

2014年10月19日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 「弱さを誇るという仕組み」

 パウロは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という主の言葉を得たと言います。また、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」さらには「わたしは弱いときにこそ強いからです」とも書いています。
 世の中を支配する「強さ」志向には、「負けてはならない」という強迫観念のようなものがあり、競争がエスカレートします。パウロの神学では、このような発想自体を無化しています。コリント教会は、脅迫的な競争の土俵を前提としなくていいし、実際その土俵に乗れない人たちから始まったのです。社会の中心ではなく周縁から始まったからです。コリントの信徒への手紙に富の問題が出てくるのは、成り上がった人々や金持ちが教会に加わったことによるだろうと考えられます。
 勝ち負けからすれば、キリスト教徒は負けていいのです。自分を客観化し相対化する視点から判断する落ち着きがあれば、取るに足らないことになるのです。自分のことを「強い」などといきがる必要はなくなるのです。「弱さ」を抱えたありのままの自分。その存在自体が根っこのところで支えられている事実。これで十分なのです。
 このことをパウロは弱さのただ中にあって包み込まれている安心感、今のままで受け入れられているあり方は十字架によって支えられると理解しています。病弱な自分、文章は力強いが話はつまらない、と評されること。様々な困難や艱難。誹謗、中傷。出口は、どのような状況にあっても、神ご自身が用意してくださっている道を歩めばいいのです、たとえそれが、負ける弱さであったとしてもです。
 「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」というパウロの理解に繋がってきます。「キリストに結ばれている」とは、主イエスの死、十字架での殺害を身に負っていることです。
 自分のありようが、全く裸にされてしまう、申し開きできないところまで、絶望してしまうことがあります。そこに、キリストの復活の力が現われる、これは、パウロ一人の信仰に留まることではないと、わたしは、信じています。わたしたちの「弱さ」が主イエスによって、明らかにされ、復活のキリストが待っていてくださる場所、ここに復活に与る生命への招きがあるのではないでしょうか。
 パウロの「弱さを誇るという仕組み」に与りつつ歩みましょう。

2014年10月12日 (日)

ルカによる福音書 17章20~21節 「神の国はどこにあるのか?」

説教者:井口 拓人 (農村伝道神学校二年)

 農村伝道神学校の自然豊かさに、創世記で神が世界を創られたときに良しとされたが、人類が環境を破壊し戦争を繰り返しても、この世界は今もその姿を失うことはないと思われる。人類は植物動物のみならず大地と共に生き、大地に仕えるものであるということを学んでいる。今回の聖書箇所から三つのメッセージを読み取りたい。
 一つ目のメッセージは、イエスが夢見た神の国の完成を、イエスは私たち自身に、私たちの人生に期待しているということ。福音書が伝えたいのは、イエスが何を言ったのか、誰と生きたのか?どう生きたのか?である。イエスは神の国を先取りしてその中を生きた、それを身をもって示した。神の国は、今この瞬間に存在し、生まれ、具現化する。死んで行くところでも、時間的未来に訪れるものでもなく、受動的な姿勢ではなく、能動的で主体的な私たちの生き方にかかっているということ。
 二つ目のメッセージは、神の国は私たちの生きている生活の真っ只中に生まれるということ。原典では、新共同訳にあたる「間に」では「エントス」という単語が使われている。文語訳「汝らのうちに」、口語訳「あなたがたのただ中」とあるが、神の国は内的な精神的な言い回しにされている。しかしこれではルカの意図していることを十分に果たせない。佐藤研「現実の只中にあるのだ」、田川建三「あなた達自身の可能性なのだ」という訳を参考にしたい。またトマス福音書113「父の国はこの地上に拡がっている。しかし人々はそれを見ない」も考えたい。分かるのは神の国とは日常の中に生まれる、私たちの立ち振る舞いに、私たちの可能性の中に、生き様の中にあるのだということ。
 3・11の絶望的な状況のなかでも、多くのキリスト者がそこにいた。そしてキリスト者は続いていく。その中にイエスがいるなら、イエスは確かに生きているし永遠に生きている。神の国はイエスの生を生きるところに生まれる。ボンヘッファーはイエスを神の「賜物」と「模範」として考えたが、イエスは自分が崇められることを望んだのではなく、宗教をつくろうとしたのでもない。神の国を伝えるために生きた。三つめのメッセージは、そのイエスに倣い生きよ、イエスを生きよ、生きているイエスの中を生きよ、それがまさに神の国になるのだということ。
 私たちに期待し、私たちの生に神の国を託したイエス。イエスが生きた神の国は私たちの生活の中に生まれる。そしてイエスもそうであった。私たちもイエスに倣い生き、神の国を体感しながら生きたいと考える。

2014年10月 5日 (日)

コリントの信徒への手紙二 1章8~11節 「祈りで援助してください」 

 苦難とか艱難にあっているときにこそ、キリスト者らしさないしは教会らしさが現れる。そこから神の力によって支えられているという様へと転じていく。そのことをパウロはコリント教会に向かって告げています。コリントの教会は、トラブルにまみれているような状態であったようです。パウロは、しかし苦難、艱難があって、そこにこそ慰めがあり希望があると、自らの経験を語りながら、苦難、忍耐からやがて感謝へと導かれると語っています(11:23-30)。
 パウロの生き方は手紙に書かれている以上の苦難と艱難の生涯であったであろうと思えます。しかし、パウロがここでコリント教会に向かって勧めることができたのは、「弱いときにこそ強い」へと転じる可能性へといつも開かれている希望に生きていたからです。「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(1:9-10)と。自らに頼ることをしない、神の力が確かであるという信仰理解を支えているのが祈りということです。この祈りによって「あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。」(1:11)と語りえたのです。
 パウロの祈りの勧めの根拠はイエスの祈りにあります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)と祈りつつ、十字架上においては「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と祈る。この十字架に磔られたままの主イエス・キリストの叫びである祈りによって導かれるところの祈りがわたしたちの祈りとして、導き出されているのか。イエス・キリストの呼ばわりへの共鳴としての祈りから希望・感謝へと向かう導きがあるのか。慰めがあると読み取ることができるのか。十字架に磔られた惨たらしいままのキリストの叫び、その祈りによって、わたしたちの祈りが応答として導き出されているのか。これらを自己検証しながらわたしたちは祈るのです。
 わたしたちの苦難、艱難の一切を知り、わたしたちが祈る前に、実は主イエス・キリストが身代わりとして、わたしたちの代理として、すでにここで祈っておられるのだということを認めることにこそ、キリスト者の祈りはあるのです。イエスの祈りに導かれて、お互いを執り成していく約束のうちに歩んでいきましょう。

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