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2014年9月14日 (日)

詩編71 1~24節 「賛美の生涯へ」

 71編は若い日から宮に仕えて賛美をささげるという役割を担っていた人が、経験したことを老いの問題と絡めて歌っているのではないかと思います。若い日から主に対して賛美をしてきた人物であろうと思われます。しかし、おそらく、トラブルに巻き込まれて、人々から捨てられ、そして神からも捨てされてしまうような何かしらの経験をしているのではないかと思われます。にもかかわらず、一貫した神への信頼において、静かな言葉で歌いこんでいくのです(71:9‐11)。さらに12節にあるように「神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。」と寄りすがっていくのです。旧約聖書において「遠い」とか「遠く」というのは神からの関係を表しますので、誰かから貶められることで自分の立場が危うくされていることは、神からの位置が遠ざけられたということになります。
 神よと訴え、自分が白髪になっても捨て去らないでくださいという願いをもちながら、さらには次の世代に、その祈りを託している姿勢を失わないのです。賛美の生涯を生きる、そして生きた一人の詩人の証言、その証しが71:14-19には特に込められているのです。つまり、この詩は苦難からの救いを求める個人の祈りでありながら、同時に、「わたし」の所属する仲間たちの祈りでもあります。
 わたしたちは確かに儚い存在であるということをしばしば自覚することがあります。とりわけ、親しい者の葬儀に参列する時に思わされます。パウロは人間とは「土の器」であって、そこに盛られる「光」によって支えられているという現実を語ります。また、創世記では神が土塊を人の形にし、鼻に息を吹き込むことによって<いのち>あるものとされたとあります。これは<いのち>という事柄が神に由来するということです。自分がどのような弱さや儚さを抱えていたとしても、その<いのち>自身は神のものであるという信頼に基づいているからです。だからこそ、12節では「神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。」と祈ることができたのです。
 <いのち>は人間に由来しないということです。人間は与えられている分相応の生き方をしなければいけない。<いのち>は神からしか由来しない。人間から作り出すことはできないし、そこには触れてはならないものだという自覚が必要だろうと思います。わたしたちはこの世に生まれ出で、やがて神のもとに帰っていきます。旧約聖書には「長寿の幸福論」というものがあります。高齢であるということは、すなわち幸いなのです。だけれども、わたしたちの<いのち>というのは、そしてわたしたちの寿命というのは自分たちで測ることができない。髪の毛を数えることも白くすることもできない、という古代の表現からすれば神の働きなのです。そのような人間の側の謙虚さを求めることを問う、神からの導きというものを信じて歩むところにこそ、わたしたちの賛美の生涯というものがあり、ここに向かって招かれているのです。

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