コリントの信徒への手紙一 12章12~26節 「一致に向かう途上にて」
コリント教会で起こっている事柄は、普遍的な課題を含んでいます。パウロの時代の教会が負っていた課題と現代の教会の負っている課題には共通する部分がある、パウロの直面した課題は現代教会の問題でもあるのです。
コリントは港町でもあり、非常に栄えていた都市ですから、民族、宗教、文化、価値観、色々なものが混ざってきているわけです。それぞれの出自にまつわる価値観を背負ってきた人たちが、自己相対化できずに「自分が正しい」という価値観で生きているものですから、どうしてもそれぞれの価値観を背景にしてぶつかり合ってしまう、という中で「お前はいらない」という言葉が教会の中で語られるということが起こったようです。コリント教会は分派、分争が起こっているのです(1:12以降参照)。また霊的な賜物の問題があり、ここに能力の違いにおける優劣の価値観を持ち込むのです(12:9‐10)。違いによって共同体から排除するという問題性をパウロは指摘するのです。
違いこそが、パウロの視点からすれば、尊いのだというのです。「お前はいらない」という排除によって教会、共同体を纏め上げようとするのではなく、違いを認め受け入れたうえでなお、共鳴によって繋がっていく群れ、そのような教会を目指すことができる、その途上にあるとパウロは信じていたと思います。
違いを違いとして認めあっていくためには、自己相対化が必要です。自己相対化の理解に至るためには、「自分が正しい」という思いを捨てねばなりません。自分の価値基準で相手を裁くのではなく、相手は自分より優れている、という前提から始めよ、とパウロは言うのです(フィリピ2:3参照)。さらには、教会共同体を体に譬え、弱い部分を尊重しながら各部の尊さを述べることで分裂ではなくて、各部分のお互いの協同性へと展開します(12:22-25)。そして「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(12:26)とまとめるのです。
この理解の根拠はイエス・キリストご自身にあります。つまり、共同体というものが、違いを認め受け入れるような仕方でキリストに結ばれていることによって一つであるという実感です。イエス・キリストの出来事において「なった」事実を信じれば自ずと自己相対化が起こってくるということです。「お前はいらない」という言葉を真に受けた方、それはイエス・キリストご自身です。飼い葉桶から十字架に至る道は「お前はいらない」という断罪です。ここには、「お前はいらない」と言われ続ける人々への連帯があります。この連帯する主イエスによって自己相対化を踏まえて一致の途上での祈りにこそ可能性が開かれているのです。
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