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2014年9月

2014年9月28日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章12~26節 「一致に向かう途上にて」

 コリント教会で起こっている事柄は、普遍的な課題を含んでいます。パウロの時代の教会が負っていた課題と現代の教会の負っている課題には共通する部分がある、パウロの直面した課題は現代教会の問題でもあるのです。
 コリントは港町でもあり、非常に栄えていた都市ですから、民族、宗教、文化、価値観、色々なものが混ざってきているわけです。それぞれの出自にまつわる価値観を背負ってきた人たちが、自己相対化できずに「自分が正しい」という価値観で生きているものですから、どうしてもそれぞれの価値観を背景にしてぶつかり合ってしまう、という中で「お前はいらない」という言葉が教会の中で語られるということが起こったようです。コリント教会は分派、分争が起こっているのです(1:12以降参照)。また霊的な賜物の問題があり、ここに能力の違いにおける優劣の価値観を持ち込むのです(12:9‐10)。違いによって共同体から排除するという問題性をパウロは指摘するのです。
 違いこそが、パウロの視点からすれば、尊いのだというのです。「お前はいらない」という排除によって教会、共同体を纏め上げようとするのではなく、違いを認め受け入れたうえでなお、共鳴によって繋がっていく群れ、そのような教会を目指すことができる、その途上にあるとパウロは信じていたと思います。
 違いを違いとして認めあっていくためには、自己相対化が必要です。自己相対化の理解に至るためには、「自分が正しい」という思いを捨てねばなりません。自分の価値基準で相手を裁くのではなく、相手は自分より優れている、という前提から始めよ、とパウロは言うのです(フィリピ2:3参照)。さらには、教会共同体を体に譬え、弱い部分を尊重しながら各部の尊さを述べることで分裂ではなくて、各部分のお互いの協同性へと展開します(12:22-25)。そして「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(12:26)とまとめるのです。
 この理解の根拠はイエス・キリストご自身にあります。つまり、共同体というものが、違いを認め受け入れるような仕方でキリストに結ばれていることによって一つであるという実感です。イエス・キリストの出来事において「なった」事実を信じれば自ずと自己相対化が起こってくるということです。「お前はいらない」という言葉を真に受けた方、それはイエス・キリストご自身です。飼い葉桶から十字架に至る道は「お前はいらない」という断罪です。ここには、「お前はいらない」と言われ続ける人々への連帯があります。この連帯する主イエスによって自己相対化を踏まえて一致の途上での祈りにこそ可能性が開かれているのです。

2014年9月14日 (日)

詩編71 1~24節 「賛美の生涯へ」

 71編は若い日から宮に仕えて賛美をささげるという役割を担っていた人が、経験したことを老いの問題と絡めて歌っているのではないかと思います。若い日から主に対して賛美をしてきた人物であろうと思われます。しかし、おそらく、トラブルに巻き込まれて、人々から捨てられ、そして神からも捨てされてしまうような何かしらの経験をしているのではないかと思われます。にもかかわらず、一貫した神への信頼において、静かな言葉で歌いこんでいくのです(71:9‐11)。さらに12節にあるように「神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。」と寄りすがっていくのです。旧約聖書において「遠い」とか「遠く」というのは神からの関係を表しますので、誰かから貶められることで自分の立場が危うくされていることは、神からの位置が遠ざけられたということになります。
 神よと訴え、自分が白髪になっても捨て去らないでくださいという願いをもちながら、さらには次の世代に、その祈りを託している姿勢を失わないのです。賛美の生涯を生きる、そして生きた一人の詩人の証言、その証しが71:14-19には特に込められているのです。つまり、この詩は苦難からの救いを求める個人の祈りでありながら、同時に、「わたし」の所属する仲間たちの祈りでもあります。
 わたしたちは確かに儚い存在であるということをしばしば自覚することがあります。とりわけ、親しい者の葬儀に参列する時に思わされます。パウロは人間とは「土の器」であって、そこに盛られる「光」によって支えられているという現実を語ります。また、創世記では神が土塊を人の形にし、鼻に息を吹き込むことによって<いのち>あるものとされたとあります。これは<いのち>という事柄が神に由来するということです。自分がどのような弱さや儚さを抱えていたとしても、その<いのち>自身は神のものであるという信頼に基づいているからです。だからこそ、12節では「神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。」と祈ることができたのです。
 <いのち>は人間に由来しないということです。人間は与えられている分相応の生き方をしなければいけない。<いのち>は神からしか由来しない。人間から作り出すことはできないし、そこには触れてはならないものだという自覚が必要だろうと思います。わたしたちはこの世に生まれ出で、やがて神のもとに帰っていきます。旧約聖書には「長寿の幸福論」というものがあります。高齢であるということは、すなわち幸いなのです。だけれども、わたしたちの<いのち>というのは、そしてわたしたちの寿命というのは自分たちで測ることができない。髪の毛を数えることも白くすることもできない、という古代の表現からすれば神の働きなのです。そのような人間の側の謙虚さを求めることを問う、神からの導きというものを信じて歩むところにこそ、わたしたちの賛美の生涯というものがあり、ここに向かって招かれているのです。

2014年9月 7日 (日)

使徒言行録 18章1から11節 「前進」

 17章には、アテネで伝道した物語があります。アテネは、いわゆるギリシャ哲学の本場です。そこでパウロは説教をするのですが、相手にされないのです。死者の中からのよみがえり、イエスの復活が喜ばしい出来事なのだという主張がです。話せば話すほど疲労が蓄積していくような感じでしょうか。パウロは持病を抱え、加えて精神的なダメージが嵩んでくる。アテネ伝道は残念ながら失敗に終わり、逃げるようにして次の場所コリントに向かったのです。
 パウロは相当参っていたのでしょう。自信喪失、自分の言葉が手の中からポロポロこぼれていくような喪失感、あるいは、もうイエス・キリストについて語るのは辞めようというような弱気に陥ったのかもしれません。孤独感に苛まれていたのかもしれません。しかし、そのパウロに対して、9~10節の言葉が与えられます「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。
 ここには、パウロの恐れと沈黙と孤独に対しての励ましがあります。パウロを支える幻の中で響く言葉。この言葉は具体としてイエス・キリストの神から仲間が備えられることでした。孤独ではない、この事実は仲間の備えにあります。「アキラとプリスキラ」という同業者、「シラスとテモテ」という伝道者、「ティティオ・ユストと会堂長のクリスポ」という助け手が次々と与えられるのです。仲間が備えられているのです。
 イエス・キリストが復活したという出来事は、孤独ではないことの具体化へと転じていくのです。具体としての仲間が与えられる根拠はイエス・キリストご自身に由来します。すなわち、アテネからコリントに辿り着いた事情を示しているコリントの信徒への手紙Ⅰ 2:1~5の言葉によって確認できます。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」と。「わたしも」とパウロが語る時の「も」とは、衰弱と恐れと不安を共に担っていてくださるイエスが「わたしがあなたと共にいる」リアリティーで会ったことは間違いありません。
 ここから何度でもやり直し、歩み直しができるのです。キリスト者の生とは、このようなものなのです。この出来事は現代の弟子である、わたしたちと決して無縁ではないとの約束に慰めと希望が備えられています。

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