ローマの信徒への手紙 4章13~25節 「信頼に生きる」
キリストの赦しに出会うことなく、何故自分で自分に罪があることが分かるのか?キリストなしに自分の力で罪が分かるということがあるのか?どうなのでしょうか?
罪の赦しがまず先行することによって、今のあなたのままで、もう赦されて義の側に移されてしまっているという計算になっているのです。根本的な罪が、赦しによって明らかにされるのです。イエス・キリストによる贖罪。イエス・キリストの十字架の出来事の光において照らされる、その光の激しさによって映し出されるところの影が罪なのです。光が強ければ影が濃くなる、光が弱ければ影が薄くなる。光によって照らされるので影ができるのです。つまり、罪の赦しがあるからこそ罪の認識に至ることができるのです。そのような認識に立つ必要があります。
イエス・キリストの十字架の出来事によって罪が赦されたので、わたしたちはキリストを信じることができるし、だからこそ、罪の告白ができるのです。このように発想しないと人間中心の信仰理解になってしまいます。つまり、人間の信じる立場の方に優位が与えられてしまうからです。
パウロの場合、アブラハム理解においては、まず神の側からの働きかけが絶えず先行するということにおいて、どのように応答していくか、に信仰が現れると考えます。同様に、「わたしが信じる」信仰ではなくて、まず神の側から発想するということです。
信仰義認という事柄はまず、神の赦しが先行するのです。それに対する応答として罪の告白が引き起こされることです。罪と言っても、わたしたちには罪を認識する能力がそもそもないのだ、ということです。ある神学者が言うように、認識できるのは氷山の一角にしか過ぎないのです。水面上の氷の下には何倍もの氷があるように、イエス・キリストの贖罪という出来事によって罪の認識に至ったとしても、せいぜい水面上の部分、ほんの一部の罪認識に過ぎないということです。それほどまでに人間は賢くないのです。
この謙虚さをもう一度求めていくならば、信仰によって義とされるという出来事が、イエス・キリスト「の」信仰、イエス・キリストご自身の信仰のゆえであるという図式が腑に落ちるでしょう。主イエスが死者の中から復活されたゆえに、わたしたちは義と算入されるのです。わたしたちには罪がある、だけれども、イエスの側からすれば罪として計算されない、いわゆる「赦された罪人」である、という生き方において、復活の<いのち>に与っていく生き方、そこにおいてのみイエス・キリストに信頼して生きる生き方が用意されているのです。
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