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2014年8月

2014年8月31日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章3~8節 「キリストの<からだ>」

 パウロの言葉は必然です。わざわざ言わなくてもいいことは言わないのです。そうせざるを得ないパウロの現実があるのです。教会が「キリストの<からだ>」として機能していない、という現実認識です。キリスト者というものが、一体どのように生きていくのか。二つの方向性である自尊感情を持つということと自己相対化の視点を持つとにおいて、それぞれが与えられている賜物を活かし務めに専心する、全うするということができているか、という問いです。
 傲慢さというものが、いつも教会には紛れ込んできます。自分と他の誰かを比較することによって自らが優位に立つとか、あるいは教会を支配しようとする力への意思、欲望などが渦巻いている中で、自尊感情と自己相対化、これによって「キリストの<からだ>」としての共同体を相応しく整えていきなさい、という促しがパウロによって語られているのです。キリストにあるところの水平社会の関係である神の国の反射、反映がなされるようにとの願いが込められています。
 教会の現実は、この世の現実を反映した鏡となっています。この世の価値観とか構造を、そのまま教会に持ち込んできているからです。
しかし、パウロは、この点に関して否定的です。まず、教会というものにおいてキリストの意思が働くのであれば、それがこの世に対して逆に転じていって新しいキリストにおける関係性が造られていくに違いないという考え方をしているわけです。
 <いのち>によって祝福された結ばれを示すためには、その場に与えられている課題を大切にしていけばお互いの<いのち>がきっと輝ける、そして喜ばしい生き方へと導かれていくのだとパウロは言いたいのでしょう。神に祝福された生き方とは、人と人との関係が赦されて同じ平面に立つことができて、そこで自尊感情と自己相対化によって<いのち>が結ばれていくのだという実感へと導かれていくのだという生き方があるのです。ここにこそ、神の祝福があるのです。
 思い上がってしまう人たちに対する警告と、それぞれ与えられている人たちが分に応じた働きによって生きていくこと。このことによって、新しい人間の可能性が生まれてくるということ。ここにキリストにあって生きる道筋のヒントがパウロのテキストから示されているのです。
 このことをただひたすらに実践しておられた小田原紀雄牧師が8月23日、永眠されました。遺されたわたしたちは、水平社会への道筋を、彼から託されたのだと肝に銘じたいと思います。

2014年8月24日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章26~30節 「祈り合う力」

 パウロは、困難な状況をあえて希望する、あえて忍耐する道を選んでいます。困難を受け止めることができる、耐えることができると信じています。そこで何によって支えられているかというと「霊」と呼ばれる事柄によってです。「霊」ご自身が弱い私たちを助けてくださる、という。どのように助けるか?「わたしたちは祈るべきことを知りませんが、霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」とあります。
 どのような方向を自分で判断しうるか、ということを失っている、それこそ、わたしがわたしでなくなるような、我を失ってしまうような現実において、「霊」という方がうめきをもって執り成してくださっているのだと。言葉化できない状況とは、自らの状況が混乱している、非常に危機的な状況にあるということです。もちろんパウロも何度も経験してきています。しかし、それでも大丈夫だという信仰があるのです。
 何故ならば、そのような危機的な状況の中にあって共にいてくださる方があるということ。その方は確かに目に見えるものではない。けれども、リアルとして8章26節の言葉があります。すなわち、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と。
 祈りさえも自らの言葉を紡ぐことが不可能な状態です。その中で「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」という時に、その危機的状況に寄り添ってくださってくださる方が確実にある。パウロは確信しているのです。その方のことを知っているからです。むしろ、パウロ自身が知っているということよりも、パウロ自身がその方から呼びかけられた経験を持っているからです。
 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)。このようにして出会ってくださった復活のキリストとの出来事、さらには主イエス・キリストご自身が実は言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。これは十字架上での死に際して、うめきの極みとしての絶叫された姿において現されています。この主イエスの十字架の姿によってこそ、弱いわたしたちは助けられているのです。ここに幸いがあるのです。
だから、わたしたちもまた、言葉化できない状況の中でも、祈り合うことができるのです。今度は、寄り添ってくださる方の存在を知るわたしたち一人ひとりが、「小さなキリスト」として誰かのために執り成しをすべく召されているのです。ここにキリスト者の祈り合う生き方が備えられているのです。

2014年8月17日 (日)

ローマの信徒への手紙 4章13~25節 「信頼に生きる」

 キリストの赦しに出会うことなく、何故自分で自分に罪があることが分かるのか?キリストなしに自分の力で罪が分かるということがあるのか?どうなのでしょうか?
 罪の赦しがまず先行することによって、今のあなたのままで、もう赦されて義の側に移されてしまっているという計算になっているのです。根本的な罪が、赦しによって明らかにされるのです。イエス・キリストによる贖罪。イエス・キリストの十字架の出来事の光において照らされる、その光の激しさによって映し出されるところの影が罪なのです。光が強ければ影が濃くなる、光が弱ければ影が薄くなる。光によって照らされるので影ができるのです。つまり、罪の赦しがあるからこそ罪の認識に至ることができるのです。そのような認識に立つ必要があります。
 イエス・キリストの十字架の出来事によって罪が赦されたので、わたしたちはキリストを信じることができるし、だからこそ、罪の告白ができるのです。このように発想しないと人間中心の信仰理解になってしまいます。つまり、人間の信じる立場の方に優位が与えられてしまうからです。
 パウロの場合、アブラハム理解においては、まず神の側からの働きかけが絶えず先行するということにおいて、どのように応答していくか、に信仰が現れると考えます。同様に、「わたしが信じる」信仰ではなくて、まず神の側から発想するということです。
 信仰義認という事柄はまず、神の赦しが先行するのです。それに対する応答として罪の告白が引き起こされることです。罪と言っても、わたしたちには罪を認識する能力がそもそもないのだ、ということです。ある神学者が言うように、認識できるのは氷山の一角にしか過ぎないのです。水面上の氷の下には何倍もの氷があるように、イエス・キリストの贖罪という出来事によって罪の認識に至ったとしても、せいぜい水面上の部分、ほんの一部の罪認識に過ぎないということです。それほどまでに人間は賢くないのです。
 この謙虚さをもう一度求めていくならば、信仰によって義とされるという出来事が、イエス・キリスト「の」信仰、イエス・キリストご自身の信仰のゆえであるという図式が腑に落ちるでしょう。主イエスが死者の中から復活されたゆえに、わたしたちは義と算入されるのです。わたしたちには罪がある、だけれども、イエスの側からすれば罪として計算されない、いわゆる「赦された罪人」である、という生き方において、復活の<いのち>に与っていく生き方、そこにおいてのみイエス・キリストに信頼して生きる生き方が用意されているのです。

2014年8月10日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 「弱っているあなたに」

 教師はある価値観をもってなければ、子どもには向き合えない。価値観は時代によっても変わるが「良いこと、良いもの」を目指すという教育の営みそのものは変わらない。そしてそれは、同時に「価値のないもの」「良くないもの」を定めることでもある。「いい方のもの」を手にすると、そのことが「喜び」「誇り」になり、自己肯定感、満足感、自信につながるが、人間は完璧でないので、どんなに自慢するものをもっている人でも、同時に「弱さ」ももっており、それは劣等感、自己否定、ねたみ等につながる。
 人が「強さ」のみを求め、「弱さ」の存在を認めることをしないと自らを「苦しむ」ことへと追い込んでしまう。だから、生きていく上では、「弱さ」を別の価値観で見ること、「弱さ」を「強さ」として認めることも大事になってくる。
 しかし、パウロが言っているのは、そのように「見方を変えて、弱さの中に強さを見出す」ということではない。弱いことはやっぱり弱いとはっきりと認めることだというのである。
 パウロは自分の「弱さ」を語ることで、自分と神との交わりの「強さ」を伝えようとした。パウロのとげとは、何らかの病気であったらしい。パウロは「病気を癒してください」と熱心に神に祈ったに違いない。しかし、神はパウロの病気を治してはくださらなかった。そこでパウロは、神が治してくださらないということは、この病気によって神が私に伝えたい何かがあるのだと考え、「そのとげの意味を教えてください」と祈り続けた。すると、神から返ってきた答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。」という言葉であった。
 病気が治ったから恵みは十分だ、ということではない。病気を抱えたままで、今のままで、神の恵みは十分だと言われたのである。そして、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と続く。
 教会は、社会からはじき出された「弱い人」を受け入れる場所、招き入れる場所である。でもそれは、イコール「弱さを肯定すること」ではないはずである。「弱さを誇る」とは「弱さを肯定する」ことや弱さの中に違う価値観での「強さ」を見いだして「弱さ」を「強さ」に変えたりすることではない。「弱さを誇る」とは、「弱さ」を通して神様に向き合うことなのだ。だから私たちは、「弱い時にこそ強い」と言え、「弱さを誇る」ことができるのである。そのことに感謝して、強い神の愛を信じて、共に歩んでいきましょう。               (仲程 剛)

2014年8月 3日 (日)

イザヤ書 11章1~10節 「甘いと言われても構わない」

 今日のテキストから、イザヤは歴史において、軍事力や経済力のより優った国々がより弱く貧しい国々を支配し、いわば「弱肉強食」の世界の姿を否定し、まことの意味で水平で平等な世界を夢見ていたことが分かります。この世界観は非戦論の考え方と共鳴しているのではないでしょうか?
 旧約聖書は、神の民イスラエルが神に従い信じた歴史と神を裏切り、偶像礼拝に陥った歴史を、記憶として心に刻む意図によって書かれています。ここで言う記憶とは、個人の経験や思い出ではありません。語り伝え、書き残されたものを後の時代の人々が解釈し、反省と展望によって、より神の思いに相応しい世界を模索することです。
 この日本という国は、敗戦国であるという歴史的事実を記憶によって学ぶことを忘れているようにしか思われません。第二次世界大戦の記憶が継承されていないとしか考えられません。「戦争のできる国が普通の国なのだ」という誤った記憶を教訓化することのなかった大衆の支持によって、危険な方向に向かっているとしか考えられません。保守的な政治家も、実際の戦争の記憶のある人々は、今の日本の状況を憂いているのです。
 今日のテキストから聴くことは、非戦の理解が今の時代の空気の中で「甘いと言われても構わない」立場へと導かれることだと信じています。
 非戦論とイザヤ書との共鳴を、憲法に先立ち改悪された教育基本法から見てみましょう。新旧いずれの教育基本法も「教育は、不当な支配に服することなく」という言葉が語られていますが、続く言葉によって,旧い方で「政治権力から自由に」であったものが、改訂版では、その時々の権力の意思に従い、と正反対の方向を向いています。
 これは、いわゆるパックス・ロマーナ、ローマの平和の概念に通じるものがあります。つまり、権力に逆らわない限りにおいて自由を与えるということです。イエスはパックス・ロマーナという時代的背景の中で、自由に生きる道を目指すものとして反逆者として十字架につけられた事実を深く受け止める必要があるのではないでしょうか?イエスが十字架につけられたのなら、この道に従うことがキリスト者の道ではないでしょうか?
 わたしたちはどのような道を歩むのか、イザヤ書は決断を迫っているのです。
 この意味において、キリスト者は「本国は天にある」と信じるからこそ「甘いと言われても構わない」存在として旅する道へと招かれているのです。

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