ローマの信徒への手紙 12章3~8節 「キリストの<からだ>」
パウロの言葉は必然です。わざわざ言わなくてもいいことは言わないのです。そうせざるを得ないパウロの現実があるのです。教会が「キリストの<からだ>」として機能していない、という現実認識です。キリスト者というものが、一体どのように生きていくのか。二つの方向性である自尊感情を持つということと自己相対化の視点を持つとにおいて、それぞれが与えられている賜物を活かし務めに専心する、全うするということができているか、という問いです。
傲慢さというものが、いつも教会には紛れ込んできます。自分と他の誰かを比較することによって自らが優位に立つとか、あるいは教会を支配しようとする力への意思、欲望などが渦巻いている中で、自尊感情と自己相対化、これによって「キリストの<からだ>」としての共同体を相応しく整えていきなさい、という促しがパウロによって語られているのです。キリストにあるところの水平社会の関係である神の国の反射、反映がなされるようにとの願いが込められています。
教会の現実は、この世の現実を反映した鏡となっています。この世の価値観とか構造を、そのまま教会に持ち込んできているからです。
しかし、パウロは、この点に関して否定的です。まず、教会というものにおいてキリストの意思が働くのであれば、それがこの世に対して逆に転じていって新しいキリストにおける関係性が造られていくに違いないという考え方をしているわけです。
<いのち>によって祝福された結ばれを示すためには、その場に与えられている課題を大切にしていけばお互いの<いのち>がきっと輝ける、そして喜ばしい生き方へと導かれていくのだとパウロは言いたいのでしょう。神に祝福された生き方とは、人と人との関係が赦されて同じ平面に立つことができて、そこで自尊感情と自己相対化によって<いのち>が結ばれていくのだという実感へと導かれていくのだという生き方があるのです。ここにこそ、神の祝福があるのです。
思い上がってしまう人たちに対する警告と、それぞれ与えられている人たちが分に応じた働きによって生きていくこと。このことによって、新しい人間の可能性が生まれてくるということ。ここにキリストにあって生きる道筋のヒントがパウロのテキストから示されているのです。
このことをただひたすらに実践しておられた小田原紀雄牧師が8月23日、永眠されました。遺されたわたしたちは、水平社会への道筋を、彼から託されたのだと肝に銘じたいと思います。
最近のコメント