« イザヤ書 11章1~10節 「甘いと言われても構わない」 | トップページ | ローマの信徒への手紙 4章13~25節 「信頼に生きる」 »

2014年8月10日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 「弱っているあなたに」

 教師はある価値観をもってなければ、子どもには向き合えない。価値観は時代によっても変わるが「良いこと、良いもの」を目指すという教育の営みそのものは変わらない。そしてそれは、同時に「価値のないもの」「良くないもの」を定めることでもある。「いい方のもの」を手にすると、そのことが「喜び」「誇り」になり、自己肯定感、満足感、自信につながるが、人間は完璧でないので、どんなに自慢するものをもっている人でも、同時に「弱さ」ももっており、それは劣等感、自己否定、ねたみ等につながる。
 人が「強さ」のみを求め、「弱さ」の存在を認めることをしないと自らを「苦しむ」ことへと追い込んでしまう。だから、生きていく上では、「弱さ」を別の価値観で見ること、「弱さ」を「強さ」として認めることも大事になってくる。
 しかし、パウロが言っているのは、そのように「見方を変えて、弱さの中に強さを見出す」ということではない。弱いことはやっぱり弱いとはっきりと認めることだというのである。
 パウロは自分の「弱さ」を語ることで、自分と神との交わりの「強さ」を伝えようとした。パウロのとげとは、何らかの病気であったらしい。パウロは「病気を癒してください」と熱心に神に祈ったに違いない。しかし、神はパウロの病気を治してはくださらなかった。そこでパウロは、神が治してくださらないということは、この病気によって神が私に伝えたい何かがあるのだと考え、「そのとげの意味を教えてください」と祈り続けた。すると、神から返ってきた答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。」という言葉であった。
 病気が治ったから恵みは十分だ、ということではない。病気を抱えたままで、今のままで、神の恵みは十分だと言われたのである。そして、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と続く。
 教会は、社会からはじき出された「弱い人」を受け入れる場所、招き入れる場所である。でもそれは、イコール「弱さを肯定すること」ではないはずである。「弱さを誇る」とは「弱さを肯定する」ことや弱さの中に違う価値観での「強さ」を見いだして「弱さ」を「強さ」に変えたりすることではない。「弱さを誇る」とは、「弱さ」を通して神様に向き合うことなのだ。だから私たちは、「弱い時にこそ強い」と言え、「弱さを誇る」ことができるのである。そのことに感謝して、強い神の愛を信じて、共に歩んでいきましょう。               (仲程 剛)

« イザヤ書 11章1~10節 「甘いと言われても構わない」 | トップページ | ローマの信徒への手紙 4章13~25節 「信頼に生きる」 »

コリントの信徒への手紙二」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« イザヤ書 11章1~10節 「甘いと言われても構わない」 | トップページ | ローマの信徒への手紙 4章13~25節 「信頼に生きる」 »

無料ブログはココログ