イザヤ書 11章1~10節 「甘いと言われても構わない」
今日のテキストから、イザヤは歴史において、軍事力や経済力のより優った国々がより弱く貧しい国々を支配し、いわば「弱肉強食」の世界の姿を否定し、まことの意味で水平で平等な世界を夢見ていたことが分かります。この世界観は非戦論の考え方と共鳴しているのではないでしょうか?
旧約聖書は、神の民イスラエルが神に従い信じた歴史と神を裏切り、偶像礼拝に陥った歴史を、記憶として心に刻む意図によって書かれています。ここで言う記憶とは、個人の経験や思い出ではありません。語り伝え、書き残されたものを後の時代の人々が解釈し、反省と展望によって、より神の思いに相応しい世界を模索することです。
この日本という国は、敗戦国であるという歴史的事実を記憶によって学ぶことを忘れているようにしか思われません。第二次世界大戦の記憶が継承されていないとしか考えられません。「戦争のできる国が普通の国なのだ」という誤った記憶を教訓化することのなかった大衆の支持によって、危険な方向に向かっているとしか考えられません。保守的な政治家も、実際の戦争の記憶のある人々は、今の日本の状況を憂いているのです。
今日のテキストから聴くことは、非戦の理解が今の時代の空気の中で「甘いと言われても構わない」立場へと導かれることだと信じています。
非戦論とイザヤ書との共鳴を、憲法に先立ち改悪された教育基本法から見てみましょう。新旧いずれの教育基本法も「教育は、不当な支配に服することなく」という言葉が語られていますが、続く言葉によって,旧い方で「政治権力から自由に」であったものが、改訂版では、その時々の権力の意思に従い、と正反対の方向を向いています。
これは、いわゆるパックス・ロマーナ、ローマの平和の概念に通じるものがあります。つまり、権力に逆らわない限りにおいて自由を与えるということです。イエスはパックス・ロマーナという時代的背景の中で、自由に生きる道を目指すものとして反逆者として十字架につけられた事実を深く受け止める必要があるのではないでしょうか?イエスが十字架につけられたのなら、この道に従うことがキリスト者の道ではないでしょうか?
わたしたちはどのような道を歩むのか、イザヤ書は決断を迫っているのです。
この意味において、キリスト者は「本国は天にある」と信じるからこそ「甘いと言われても構わない」存在として旅する道へと招かれているのです。
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