ヨハネによる福音書 4章23~24節 「礼拝の<こころ>」
ヤコブの井戸と呼ばれる場所でイエスは一人の女性に出会います。この女性の課題が具体的に何であったのかは分かりません。相当深い事情があったのだろうとは思われます。何故ならば、昼間に水を汲みに来ているからです。井戸というのは一つの社交場であったと考えられます。朝ないしは夕方、女性たちが器を持ち寄って、水を汲みがてら旦那の愚痴やら生活のことなど色々なことを話ししながら気分を紛らわせるなどの日常だったのでしょう。しかし、この人は井戸端の交わりに入ることができなかったのです。おそらく、人目を避けなくてはいけない何らかの事情があったのでしょう。五人夫がいたけれども、今連れ添っているのは夫ではない、ここには何らかの家族問題ないしは男性とのトラブル、スキャンダルの臭いがするわけです。この女性自身が抱えていた何らかのトラブルのゆえに人目を避けなければいけない。
彼女は自分が自分であるためには、どこかに帰属していなければ自分が保てないという状況の中で、「先祖代々伝わっているヤコブの井戸」から水を汲んでいます。つまり、サマリアの共同体に所属し切れていないにもかかわらず、自分が自分であろうとするためには、自分がサマリア人であることを弁証しなければいけないというジレンマに陥っているのです。非常に屈折した感情があるのです。
歴史的にユダヤ教徒/ユダヤ人とサマリア教徒/サマリア人は、元は同じです。様々な歴史的事情によって別の流れ、別の民族、別の宗教となっていて、ここには近親憎悪の感情が根深くあるのです。様々な時代の課題があった。それに対して、イエスは、礼拝すべき場所はユダヤ人のエルサレムではなくて、同時にサマリア人のゲリジム山でもない、と語ります。イエスとの出会いにおいて過去に依ってではなく、<今>によって生きることを促されたのです。新しく生き直すことが何度でもできることが「まことの礼拝」「霊と真理」によって支えられるというのです。それが、<今>であることが礼拝の本質だということです。
教会というのは二つの方向性を持っています。集められるという招きと、派遣という伝道と証し。このターミナルが礼拝の機能です。キリスト者の生活というものは、まず礼拝中心です。これは人間の側からの礼拝ということではなくて、神の招きから始まるところの礼拝が中心です。この礼拝からそれぞれ派遣され、祝福をもって送り出されていく、そのことによって伝道と証しをなしていくのです。礼拝によって、キリスト者の使命が<今>起こることに対して開かれていくのです。この点、ボンヘッファーが「教会は世のために存在する」と主張した根拠であると、わたしは考えています。
キリスト者の生き方の中心には、集められ、そして散らされていくというターミナルである礼拝が据えられているのです。イエス・キリストに<今>、支えられているという現実の中に、礼拝の<こころ>が宿っているのです。ここからブレることなく、信じて従う道へと共に歩んでいきましょう。
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