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2014年7月

2014年7月27日 (日)

ヨハネによる福音書 4章23~24節 「礼拝の<こころ>」

 ヤコブの井戸と呼ばれる場所でイエスは一人の女性に出会います。この女性の課題が具体的に何であったのかは分かりません。相当深い事情があったのだろうとは思われます。何故ならば、昼間に水を汲みに来ているからです。井戸というのは一つの社交場であったと考えられます。朝ないしは夕方、女性たちが器を持ち寄って、水を汲みがてら旦那の愚痴やら生活のことなど色々なことを話ししながら気分を紛らわせるなどの日常だったのでしょう。しかし、この人は井戸端の交わりに入ることができなかったのです。おそらく、人目を避けなくてはいけない何らかの事情があったのでしょう。五人夫がいたけれども、今連れ添っているのは夫ではない、ここには何らかの家族問題ないしは男性とのトラブル、スキャンダルの臭いがするわけです。この女性自身が抱えていた何らかのトラブルのゆえに人目を避けなければいけない。
 彼女は自分が自分であるためには、どこかに帰属していなければ自分が保てないという状況の中で、「先祖代々伝わっているヤコブの井戸」から水を汲んでいます。つまり、サマリアの共同体に所属し切れていないにもかかわらず、自分が自分であろうとするためには、自分がサマリア人であることを弁証しなければいけないというジレンマに陥っているのです。非常に屈折した感情があるのです。
 歴史的にユダヤ教徒/ユダヤ人とサマリア教徒/サマリア人は、元は同じです。様々な歴史的事情によって別の流れ、別の民族、別の宗教となっていて、ここには近親憎悪の感情が根深くあるのです。様々な時代の課題があった。それに対して、イエスは、礼拝すべき場所はユダヤ人のエルサレムではなくて、同時にサマリア人のゲリジム山でもない、と語ります。イエスとの出会いにおいて過去に依ってではなく、<今>によって生きることを促されたのです。新しく生き直すことが何度でもできることが「まことの礼拝」「霊と真理」によって支えられるというのです。それが、<今>であることが礼拝の本質だということです。
 教会というのは二つの方向性を持っています。集められるという招きと、派遣という伝道と証し。このターミナルが礼拝の機能です。キリスト者の生活というものは、まず礼拝中心です。これは人間の側からの礼拝ということではなくて、神の招きから始まるところの礼拝が中心です。この礼拝からそれぞれ派遣され、祝福をもって送り出されていく、そのことによって伝道と証しをなしていくのです。礼拝によって、キリスト者の使命が<今>起こることに対して開かれていくのです。この点、ボンヘッファーが「教会は世のために存在する」と主張した根拠であると、わたしは考えています。
 キリスト者の生き方の中心には、集められ、そして散らされていくというターミナルである礼拝が据えられているのです。イエス・キリストに<今>、支えられているという現実の中に、礼拝の<こころ>が宿っているのです。ここからブレることなく、信じて従う道へと共に歩んでいきましょう。

使徒言行録 8章1~8節 「教会は伝道する」

 今日は4節に集中したいと思います。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」との聖句です。教会が伝道する、という意味が込められています。「散って行った人々」とは、当時の使徒言行録の文脈では、エルサレムから追い出された人々の意味ですが、現代に引き付けて解釈すれば、この世という異郷を旅するキリスト者すべて、一人残らずに当てはまることです。キリスト者として呼び出されている事実には、同時に「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」とあるように伝道する使命が与えられているのです。パウロの召命の記事が同時に使徒としての召命であったのは、彼独自の出来事ではありません。キリスト者であるとは、そういうものなのです。ですから、自分の信じるところのイエス・キリストを自分の言葉で紡ぐ努力が絶えず問われているし、そこには信仰の自己吟味が不可欠となります。極端に言えば、キリスト者一人一人は神学者であるべきです。専門的知識を問題にしたいのではありません。自分がキリスト者を自認するなら、そうすべきであるし、そうなってしまうというのが今日の4節の趣旨です。
 その人がその人としてイエス・キリストに呼ばれ招かれてしまっている事実に対して答えていく義務にこそ、伝道の使命があるのだし、そうせざるを得なくされているところにこそ恵みがあるのだと信じています。
 いくつかの教会での洗礼の事例を聞いたことがあります。理解遅れの人であったり、幼い子どもであったりという違いはありますが、洗礼式の告白で「イエスさま大好き」という言葉が、日本基督教団信仰告白に一致するとして洗礼が授けられたというのです。このような言葉の質、つまり、その人自身が自分のなしうる言葉において告白する時、教会が伝道するという基本的態度が、ここにはあるのだということを確認しておきたいのです。
 イエスこそがキリストであって、何物にも替えられない、ただお一人の唯一の、自分にとって神としてしか言い表せない方によって守られ支えられ導かれている「確信」のようなもの。言葉は一つの抽象化であり観念化ではあるけれども、その限界を超えて働かれるところの神のリアリティーに委ねていく生き方、ここには伝道がすでに起こっているのです。このような生き方をこそ、わたしたち一人ひとりに既に与えられているリアリティーであることを認めるところにおいて既に教会が伝道している事実があるのです。この事実によって生きていることへの感謝と、これからの導きを求めて共に祈りましょう。既に教会が伝道してしまっていることへの感謝の応答として共に歩んでいきたいと願っています。

2014年7月13日 (日)

使徒言行録7章54~60節 「神に身をささげる」

 ステファノ殺害の物語は、後の時代の、殉教は美しいとされる、いわゆる「殉教物語」の道を備えていることは確かです。4世紀のキリスト教公認・続いてローマの国教になる過程での迫害の時代を生き延びる一つの知恵・動機づけだったのです。しかし、それだけが語られているのでしょうか?
 殉教としての死を必要以上に美化する神学では、靖国神社の戦死者を顕彰する、死自体の齎す悲しみや痛み、怒りといった感情を慰撫する機能と同じになってしまいます。キリスト教会の殉教理解は靖国神社の神学と同質なのでしょうか?おそらく同質な系譜はあるのでしょう。しかし、むしろ、死自体についてよりも、死に至る生き方にこそ、焦点を絞る必要があるのではないでしょうか?それは、イエスに倣う生き方のことです。使徒言行録で弟子たちがイエスの道を辿りつつ活動していることで証ししているように。
 殉教を美化することなく、かと言って軽蔑するのでもなく、冷静に考えることができないのでしょうか?現代的な意味に解釈し、翻訳すれば、殉教は歴史的・社会的な構造悪でもあると理解できないでしょうか?
 イエス・キリストを信じるとは、閉じられた<心>の中に向かうことではありません。その時々の社会的状況に向かって、神に信頼し、服従していくことです。この生き方は自分の人生を神にささげていく、自由な行動であり、証しの生活です。ステファノの生涯がそうであったことは今日の聖書が告げる通りです。イエスに倣って生きたのです。
 主イエスの招きの生涯を、アーメン、と肯定し受け止め直し、信じて従う道は備えられているのです。ステファノの物語は、現代日本の中にあるわたしたちに、この道への招きが開かれていることを語りかけているのです。根底には自分の人生は自分の持ち物ではないということがあります。一度限りの人生が神によって備えられたのであれば、使命があるはずです。この使命が現代において、どのようなことなのか、ここに責任的に関わるところの招きが語られているのです。わたしたちに求められているのは、神の招きに対して責任的にささげていく応答以外あり得ないのです。今日の聖書は、このように語りかけているのです。
 具体的に今、わたしたちの社会のもつ課題に「わたし」はどう対峙するのか、ということです。イエスに倣うならば。傍観者であることはすでに加害者であることを、自戒を込めて受け止めたいと思います。主イエスご自身が「ささげる生涯」を生き抜いたことによって支えられ、この主イエスへの信頼のうちに、神の思いを祈りにおいて受け止めつつ、神に身をささげる人生を初めからやり直し、歩みだしていくことが、わたしたちには赦されているのです。

2014年7月 6日 (日)

使徒言行録 4章1~22節 「神の前に立つ」

 今日の聖書で一際わたしたちの目を引く言葉があります。
 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(19~20節)
 ペトロとヨハネは当時の世界に直面して自分たちの立ち位置がどのようなものであるかという信仰的決断を促すようにして問いかけているのです。
 当時の社会観への統合ではなくて逸脱の中に、復活のキリストによって示される自由への道を求める教会は在る。その社会的責任を導くのは信仰告白であり、ペトロのヨハネはそのようにして神の前に立っているのです。
 彼らがここで「考えてください」という言葉を置いていることは二者択一問題です。神の前に正しいことが、神に従うことなのか、それとも「あなたがた」と言われるところの彼らの価値観や社会観、そしてその背後にある世界や歴史理解に従うことなのか、なのです。
 この言葉は今、重大な信仰告白の事態についての問いとして、わたしたちに向けられてもいるのです。 神に従うということは、聖書を祈りつつ読み、信じる者だけに赦されています。しかし、自らの信じて従う姿勢を相対化しながら自己吟味しなければ独善に陥る危険に晒されているのが、キリスト者の現実なのです。神の前における正しさとして、イエス・キリストの神に従うこと、これを追求し続ける以外にありません。
 この世を旅する共同体としての教会の、この世における責任は、決して軽くないのです。神の前での正しさとして、神に従うことについて考えると、バルメン宣言の第3テーゼと共鳴してきます。
 キリスト教会は、イエス・キリストが御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今日も働きたもう兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、またその信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただ彼の慰めと指示とによってだけ彼が現われたもうことを期待しつつ生きているということ、生きたいと願っているということを証ししなければならない。
 教会が、その使信やその秩序の形を、教会自身の好むところに任せてよいとか、その時々に支配的な世界観的確信や政治的確信の変化に任せてよいとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。
(宮田光雄 訳による)

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