使徒言行録 8章1~8節 「教会は伝道する」
今日は4節に集中したいと思います。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」との聖句です。教会が伝道する、という意味が込められています。「散って行った人々」とは、当時の使徒言行録の文脈では、エルサレムから追い出された人々の意味ですが、現代に引き付けて解釈すれば、この世という異郷を旅するキリスト者すべて、一人残らずに当てはまることです。キリスト者として呼び出されている事実には、同時に「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」とあるように伝道する使命が与えられているのです。パウロの召命の記事が同時に使徒としての召命であったのは、彼独自の出来事ではありません。キリスト者であるとは、そういうものなのです。ですから、自分の信じるところのイエス・キリストを自分の言葉で紡ぐ努力が絶えず問われているし、そこには信仰の自己吟味が不可欠となります。極端に言えば、キリスト者一人一人は神学者であるべきです。専門的知識を問題にしたいのではありません。自分がキリスト者を自認するなら、そうすべきであるし、そうなってしまうというのが今日の4節の趣旨です。
その人がその人としてイエス・キリストに呼ばれ招かれてしまっている事実に対して答えていく義務にこそ、伝道の使命があるのだし、そうせざるを得なくされているところにこそ恵みがあるのだと信じています。
いくつかの教会での洗礼の事例を聞いたことがあります。理解遅れの人であったり、幼い子どもであったりという違いはありますが、洗礼式の告白で「イエスさま大好き」という言葉が、日本基督教団信仰告白に一致するとして洗礼が授けられたというのです。このような言葉の質、つまり、その人自身が自分のなしうる言葉において告白する時、教会が伝道するという基本的態度が、ここにはあるのだということを確認しておきたいのです。
イエスこそがキリストであって、何物にも替えられない、ただお一人の唯一の、自分にとって神としてしか言い表せない方によって守られ支えられ導かれている「確信」のようなもの。言葉は一つの抽象化であり観念化ではあるけれども、その限界を超えて働かれるところの神のリアリティーに委ねていく生き方、ここには伝道がすでに起こっているのです。このような生き方をこそ、わたしたち一人ひとりに既に与えられているリアリティーであることを認めるところにおいて既に教会が伝道している事実があるのです。この事実によって生きていることへの感謝と、これからの導きを求めて共に祈りましょう。既に教会が伝道してしまっていることへの感謝の応答として共に歩んでいきたいと願っています。
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