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2014年7月13日 (日)

使徒言行録7章54~60節 「神に身をささげる」

 ステファノ殺害の物語は、後の時代の、殉教は美しいとされる、いわゆる「殉教物語」の道を備えていることは確かです。4世紀のキリスト教公認・続いてローマの国教になる過程での迫害の時代を生き延びる一つの知恵・動機づけだったのです。しかし、それだけが語られているのでしょうか?
 殉教としての死を必要以上に美化する神学では、靖国神社の戦死者を顕彰する、死自体の齎す悲しみや痛み、怒りといった感情を慰撫する機能と同じになってしまいます。キリスト教会の殉教理解は靖国神社の神学と同質なのでしょうか?おそらく同質な系譜はあるのでしょう。しかし、むしろ、死自体についてよりも、死に至る生き方にこそ、焦点を絞る必要があるのではないでしょうか?それは、イエスに倣う生き方のことです。使徒言行録で弟子たちがイエスの道を辿りつつ活動していることで証ししているように。
 殉教を美化することなく、かと言って軽蔑するのでもなく、冷静に考えることができないのでしょうか?現代的な意味に解釈し、翻訳すれば、殉教は歴史的・社会的な構造悪でもあると理解できないでしょうか?
 イエス・キリストを信じるとは、閉じられた<心>の中に向かうことではありません。その時々の社会的状況に向かって、神に信頼し、服従していくことです。この生き方は自分の人生を神にささげていく、自由な行動であり、証しの生活です。ステファノの生涯がそうであったことは今日の聖書が告げる通りです。イエスに倣って生きたのです。
 主イエスの招きの生涯を、アーメン、と肯定し受け止め直し、信じて従う道は備えられているのです。ステファノの物語は、現代日本の中にあるわたしたちに、この道への招きが開かれていることを語りかけているのです。根底には自分の人生は自分の持ち物ではないということがあります。一度限りの人生が神によって備えられたのであれば、使命があるはずです。この使命が現代において、どのようなことなのか、ここに責任的に関わるところの招きが語られているのです。わたしたちに求められているのは、神の招きに対して責任的にささげていく応答以外あり得ないのです。今日の聖書は、このように語りかけているのです。
 具体的に今、わたしたちの社会のもつ課題に「わたし」はどう対峙するのか、ということです。イエスに倣うならば。傍観者であることはすでに加害者であることを、自戒を込めて受け止めたいと思います。主イエスご自身が「ささげる生涯」を生き抜いたことによって支えられ、この主イエスへの信頼のうちに、神の思いを祈りにおいて受け止めつつ、神に身をささげる人生を初めからやり直し、歩みだしていくことが、わたしたちには赦されているのです。

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