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2014年7月 6日 (日)

使徒言行録 4章1~22節 「神の前に立つ」

 今日の聖書で一際わたしたちの目を引く言葉があります。
 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(19~20節)
 ペトロとヨハネは当時の世界に直面して自分たちの立ち位置がどのようなものであるかという信仰的決断を促すようにして問いかけているのです。
 当時の社会観への統合ではなくて逸脱の中に、復活のキリストによって示される自由への道を求める教会は在る。その社会的責任を導くのは信仰告白であり、ペトロのヨハネはそのようにして神の前に立っているのです。
 彼らがここで「考えてください」という言葉を置いていることは二者択一問題です。神の前に正しいことが、神に従うことなのか、それとも「あなたがた」と言われるところの彼らの価値観や社会観、そしてその背後にある世界や歴史理解に従うことなのか、なのです。
 この言葉は今、重大な信仰告白の事態についての問いとして、わたしたちに向けられてもいるのです。 神に従うということは、聖書を祈りつつ読み、信じる者だけに赦されています。しかし、自らの信じて従う姿勢を相対化しながら自己吟味しなければ独善に陥る危険に晒されているのが、キリスト者の現実なのです。神の前における正しさとして、イエス・キリストの神に従うこと、これを追求し続ける以外にありません。
 この世を旅する共同体としての教会の、この世における責任は、決して軽くないのです。神の前での正しさとして、神に従うことについて考えると、バルメン宣言の第3テーゼと共鳴してきます。
 キリスト教会は、イエス・キリストが御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今日も働きたもう兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、またその信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただ彼の慰めと指示とによってだけ彼が現われたもうことを期待しつつ生きているということ、生きたいと願っているということを証ししなければならない。
 教会が、その使信やその秩序の形を、教会自身の好むところに任せてよいとか、その時々に支配的な世界観的確信や政治的確信の変化に任せてよいとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。
(宮田光雄 訳による)

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コメント

読ませていただきました。

ちゃんと理解できたかどうかはわかりませんが、現代社会のあり方を考える際には、常に自らの行動がキリストの言葉に倣うものであるか、自らの主張や、支持するグループや政党(わたしにはいませんが)や、所属する教会などが、無謬性を主張することに陥らないように、常に吟味しなければならないということでよろしいでしょうか。

それにしても、相手も頭の悪くない連中です。というよりは「知識教養?」を身につけることのできる人脈的かつ経済的に大変恵まれた?環境に育ち、ディベートする能力をも培えたのでしょう。I氏にしても、ああいう屁理屈でのらりくらりと切り返されていたら、ウンザリして、わたしならすぐに言いくるめられて負けてしまうでしょう。A氏にしてもです。

無学だったペトロが、圧倒的支配に抗するこのようなしっかりとした言葉を言い、態度をとれるようになったのは、「知恵」というものは、ひとえに信仰によってのみ与えられるということなのでしょうか。結局はインテリのパウロが中心になってキリスト教を広めたのであれば、やはり「知識・教養」というものは大事なんでしょうが、ここでペトロが言った言葉には重要な意味があり、ペトロでなければならなかったものなのでしょうね。

バルメン宣言……「教会は、その服従によっても、またその信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり」

過去にも教えてもらった記憶があります。

真理問題について短いスペースでお答えすることは難しいと思いますが、何点か書いておきます。
1)わたしは自らの信仰を自己相対化する視座については横田勲の説教から学びました(自費出版です。ヤフオクで入手可能かもしれません。『傍らに立つ者』の最初の説教 「根底から問い直せ」を参考にしてください)。
2)「知」の問題については、出来得る限り追求すべきですが、現実に戻って「ただの人」として生きる道を探る必要を感じています。これについては吉本隆明の『最後の親鸞』あたりを参考にしてください。
3)バルメン宣言については、わたしとしては若干批判的な点もありますが、もっと尊重されていいはずだと思っています。キリスト論的集中については古びていないです。

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