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2014年6月

2014年6月29日 (日)

使徒言行録3章1~10節 「キリストの名によって」

 今日のテキストでは、ペトロとヨハネが中心で活動していますが、あくまで使徒言行録の主人公は聖霊です。目に見えないところで働くところのイエス・キリストの復活の力である聖霊が注がれるときにおいてのみ、主に従う者たちには力が添えて与えられるのです。
 その力は「キリストの名」に由来します。しかし、「キリストの名」を用いながらキリストの名を笠に着て自己主張していくのか、仕えていくのか、では全く生き方の方向性が違います。イエス・キリストの神を自分の思い通りに動かしたいので「キリストの名」によって祈るのか、それともイエス・キリストの思いに自らを委ね、聖霊の働きに委ねて生きていく、仕え、従っていく決意としてキリストの名によって祈るのかによって、同じキリスト者であっても、その生きる姿、立ち居振る舞いは全く違う方向を示していくわけです。
 今日のペトロとヨハネはキリストの名を用いています。これは、彼らが聖霊に与って、その業において仕えていく中で、生まれつき足の不自由な人の友となっていくこと、仲間となっていくことへと促されます。「しょうがい」は当時の価値観からすれば「穢れ」の概念と結びついています。手で触れるということは、自らその「穢れ」を身に受け、引き受けることを意味します。そのような仕方で友となり仲間となるのです。右手を取って、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたのは、聖霊におけるキリストに信じて従う、その服従の道において「キリストの名」に従ったのです。
 当時の価値観からすると、実は反社会的なことになります。社会的秩序を乱すことになります。詳しく書かれていませんが、この歩けない人をここまで運んできた人がいるはずです。その人は施しのお金の分け前を受け取っていたでしょう。つまり、ここで「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」との言葉の通りに立ち上がり、歩き始めてしまったならば、運んできた人の収入の道が絶たれることになるのです。差別と施しのバランスによって成り立っている社会秩序が乱れるわけです。施しにすがって施しと差別のバランス感覚の中で生きるのか、それとも「キリストの名」において自らが立ち上がり歩いていくのか、このような十字路がここにはあるのです。
 「キリストの名」にある生き方とはどのようなことなのか、これを今日のテキストは読み手に強く迫る物語なのです。

2014年6月 1日 (日)

マタイによる福音書 23章1~12節 「先生、教師と呼ばれるな」

 今日のポイントを絞ると、教師、先生と呼ばれないということです。先生と呼ばれるな、教師と呼ばれるな、と言われている先生は「ラビ」、ユダヤ教の教職ですが、教師は「導く者」のことです。これらの尊称を教会の中に適用していいのか、という問題です。これは律法学者、ファリサイ派に対する批判の言葉なのですが、他者に対して浴びせる言葉というのは自分に返ってきます。つまり、マタイによる福音書がファリサイ派、律法学者たちに対して「先生」「教師」と呼ばれてならないと相手に向かって言うのであれば、自らに向かわないからです。
 わたしは基本的には「牧師」という職制は無くなればいいと思っています。牧師を必要としない教会が理想であり、それを模索していく途上にあって、暫定的な意味において牧師という職務を担うという立場でいます。キリストだけが先生であり、キリストだけが教師です。もし、牧師の役割があるのであれば、イエス・キリストだけが真の先生であり、真の教師であることに対しての応答を、その役割において暫定的に担うという形でしか、その職制はないということです。
 仕える者になる、遜る者になる、というイエスの言葉が意味するのは、誰かを持ち上げることによって自らを低くすることではありません。「教師」「先生」という踏み台・上げ底を取り外して、水平な関係になっていくような仕方で教会形成ができないものかどうか?教職の位置を相対的に落としていくことは教師自身が謙虚になっていくこと(自戒を込めて)です。
 イエスと弟子たちの関係性はどうだったのだろうか、と想像しながら始められるのではないでしょうか。福音書ではイエスが先生など呼ばれることがありましたが、イエスは肯定的には、それらの言葉を受け止めていないのです。イエスは自分のことをいう時には「わたし」ないしは「人の子」です。「人の子」という意味は、「人間」「わたし」「来るべき日にやって来る人」という三つの意味があります。「人の子」という言葉において「ただの人」になっていくという、それがイエスご自身の立ち位置です。こんな難しいことはありません。しかし、「牧師」はそれに倣う者であるはずです。
 困難な課題が与えられながら歩んでいくことの中で、より楽しい教会、聖霊の風がもっと行き渡るような教会になっていきたい。このようなことを今日の聖書を読みながら知らされたのです。

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