使徒言行録3章1~10節 「キリストの名によって」
今日のテキストでは、ペトロとヨハネが中心で活動していますが、あくまで使徒言行録の主人公は聖霊です。目に見えないところで働くところのイエス・キリストの復活の力である聖霊が注がれるときにおいてのみ、主に従う者たちには力が添えて与えられるのです。
その力は「キリストの名」に由来します。しかし、「キリストの名」を用いながらキリストの名を笠に着て自己主張していくのか、仕えていくのか、では全く生き方の方向性が違います。イエス・キリストの神を自分の思い通りに動かしたいので「キリストの名」によって祈るのか、それともイエス・キリストの思いに自らを委ね、聖霊の働きに委ねて生きていく、仕え、従っていく決意としてキリストの名によって祈るのかによって、同じキリスト者であっても、その生きる姿、立ち居振る舞いは全く違う方向を示していくわけです。
今日のペトロとヨハネはキリストの名を用いています。これは、彼らが聖霊に与って、その業において仕えていく中で、生まれつき足の不自由な人の友となっていくこと、仲間となっていくことへと促されます。「しょうがい」は当時の価値観からすれば「穢れ」の概念と結びついています。手で触れるということは、自らその「穢れ」を身に受け、引き受けることを意味します。そのような仕方で友となり仲間となるのです。右手を取って、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたのは、聖霊におけるキリストに信じて従う、その服従の道において「キリストの名」に従ったのです。
当時の価値観からすると、実は反社会的なことになります。社会的秩序を乱すことになります。詳しく書かれていませんが、この歩けない人をここまで運んできた人がいるはずです。その人は施しのお金の分け前を受け取っていたでしょう。つまり、ここで「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」との言葉の通りに立ち上がり、歩き始めてしまったならば、運んできた人の収入の道が絶たれることになるのです。差別と施しのバランスによって成り立っている社会秩序が乱れるわけです。施しにすがって施しと差別のバランス感覚の中で生きるのか、それとも「キリストの名」において自らが立ち上がり歩いていくのか、このような十字路がここにはあるのです。
「キリストの名」にある生き方とはどのようなことなのか、これを今日のテキストは読み手に強く迫る物語なのです。
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