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2014年6月 1日 (日)

マタイによる福音書 23章1~12節 「先生、教師と呼ばれるな」

 今日のポイントを絞ると、教師、先生と呼ばれないということです。先生と呼ばれるな、教師と呼ばれるな、と言われている先生は「ラビ」、ユダヤ教の教職ですが、教師は「導く者」のことです。これらの尊称を教会の中に適用していいのか、という問題です。これは律法学者、ファリサイ派に対する批判の言葉なのですが、他者に対して浴びせる言葉というのは自分に返ってきます。つまり、マタイによる福音書がファリサイ派、律法学者たちに対して「先生」「教師」と呼ばれてならないと相手に向かって言うのであれば、自らに向かわないからです。
 わたしは基本的には「牧師」という職制は無くなればいいと思っています。牧師を必要としない教会が理想であり、それを模索していく途上にあって、暫定的な意味において牧師という職務を担うという立場でいます。キリストだけが先生であり、キリストだけが教師です。もし、牧師の役割があるのであれば、イエス・キリストだけが真の先生であり、真の教師であることに対しての応答を、その役割において暫定的に担うという形でしか、その職制はないということです。
 仕える者になる、遜る者になる、というイエスの言葉が意味するのは、誰かを持ち上げることによって自らを低くすることではありません。「教師」「先生」という踏み台・上げ底を取り外して、水平な関係になっていくような仕方で教会形成ができないものかどうか?教職の位置を相対的に落としていくことは教師自身が謙虚になっていくこと(自戒を込めて)です。
 イエスと弟子たちの関係性はどうだったのだろうか、と想像しながら始められるのではないでしょうか。福音書ではイエスが先生など呼ばれることがありましたが、イエスは肯定的には、それらの言葉を受け止めていないのです。イエスは自分のことをいう時には「わたし」ないしは「人の子」です。「人の子」という意味は、「人間」「わたし」「来るべき日にやって来る人」という三つの意味があります。「人の子」という言葉において「ただの人」になっていくという、それがイエスご自身の立ち位置です。こんな難しいことはありません。しかし、「牧師」はそれに倣う者であるはずです。
 困難な課題が与えられながら歩んでいくことの中で、より楽しい教会、聖霊の風がもっと行き渡るような教会になっていきたい。このようなことを今日の聖書を読みながら知らされたのです。

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コメント

「宝さん」お久しぶりです。こんばんは。

コメントを見てくださる方々に紹介しますと、わたしはかつて「宝さん」が加須教会にいたときの会員でした。
わたしにとって、「宝さん」は、加須教会にいた頃から「宝さん」です。(ちなみにわたしを知らない方に紹介しますと、わたしは彼より約6歳年下です)。
そして「宝さん」は、昔から大好きな牧師です。
決して持ち上げたいと思って書いているわけではありません。
「宝さん」を「先生」と呼ぶことに、ものすごく抵抗があるからです。
(ちなみに彼のおつれあいに対しても「さんづけ」でした。)
 
「宝さん」には、わたしと同じような多くの欠点がありましたが(ごめんなさい)彼の良いところが、まさに「先生」と呼びたくないところなのです。

わたしが宝さんを初めて知ったのは、まだ宝さんが30代の頃でした。
そして第一印象が「この人って本当に牧師なの?大丈夫か?」というものでした。
教会に訪ねていったわたしを、照れくさそうに、申し訳なさそうに、おずおずと案内してくれました。
そこまで謙虚な牧師は、見たことはありませんでした。

そのかわり、説教は真逆のように真剣で、怒りに満ち、かなりシビアなものでしたが。
別人かと思いました。

数人の方々と裸の人間的な行き違いもありましたね。
でも、その牧師らしくないところが好きでした。

現在の宝さんはもっと偉く?なっているのかもしれませんが、わたしは今後も積極的に「宝さん」と呼んでいきたいと思います。
(話す機会がなかなかありませんが。)

それと、難しいことは書けませんが、他者からのコメントを受け入れていること自体、勇気がいることです。エライッ!

牧師っていうのは、自分だけ言いたいことを言い、批判は一切受け入れないという人が沢山います。
というか、多くの牧師の説教自体がそれに近いものがありますから。
自己満足ですね。
どうしてそれで給料がもらえるんでしょう?
世の人々は批判にさらされています。
ときには「人間力」(虫酸が走る言葉です)の欠如のような扱いを受け、仕事をしているというのに。

しかも教会に来る人間というのは、現在ではどちらかというと、恵まれた方々ですよね。
なので、世の中に対する矛盾を「皮膚感覚で」感じる批判精神がない。
貧しさ故に、東京電力の下請けの下請けで、健康を害しながら働く労働者は教会に集まりますか?

だから(自戒も込めて)教会に対して、「違うだろ?」とは思わないことも多いのです。
言いっぱなしの牧師は、傲慢きわまりないですね。

というわけでコメントはこれらも受け入れて下さい。
僭越ながら批判をさせいただくこともあるかとますが……
残念ながら、現在とても忙しくて、あまりそのようなことはできそうにありません。
でも、わたしもこのコメントにクレームをつけられても、それほど怖くなくなりましたよ。
自分の意見が他者に反論されることは覚悟の上での発言です。
だから本名で投稿しました。

教会に「先生」という呼び方がなくなることをきっかけに、本当に教会を必要としている人たちが集まるようになっていけばいいと思っています。
満足な食事も取れず、インターネットカフェに寝泊まりするのではなく、教会に泊まる……
いえ、それは無理でも、もう少しマシな環境を提供しあえる、そんな教会に。
もちろんその維持には大変な苦労を要すると思いますが。

ちなみに他の説教は全く読んでいません。
忙しくて……。
なので、見当外れでしたらすみません。
でもこれを読めただけでラッキーでした。
 
応援しています。眠いのでこれにて失礼。誤字脱字、あったらすみません。

本当にお久しぶりです。
コメントをありがとうございます。
これからも「牧師」とは何か?などについて聖書と対話しながら考え続けていくつもりです。

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