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2014年5月

2014年5月25日 (日)

使徒言行録 1:章15~26節 「教会につながること」

 イスラエルというユダヤ民族は12部族からなっていると信じられていました。この12が転じてイエスの弟子たちが12人であったと新約聖書は解釈しています。女性の弟子も大勢いたはずですが、教会の象徴的な主流メンバーが12人であったということです。マティアが選ばれたということは、12のうちの1が欠けた状態を、ただ単に数合わせで補ったということではありません。教会に限らず人間の共同性の中で、一人が欠けるとか一人が加わるという時には、その共同体の関係性が不安定になります。人間の共同体は流動的なので、その中でアクティブな関係でいるためには、なるべく関係を整える必要があるということです。アクティブな状態とは、1+1=2ではなく1+1>2の働きをするということです。関係性がアクティブでなくなると活動が低下するのです。11に1を足すことで12にしたという記事は、教会という人間関係をよりアクティブにするための儀礼であったのだと、わたしは理解します。
 人間のあり方、つまり神が人と人との関係を取り持つことによって、人間がより生き生きと1+1>2の働きを起こす、その可能性に委ねていく、ということです。アメリカのフォークソングにピート・シーガーの「一人の手」という歌があります。
1.私の手だけじゃ牢屋は破れない
  あなたの手だけじゃ牢屋は破れない
  ※でも二人また二人そして50人と増えていけば100万になる
    やがてその日がやってくるだろうやがてその日がやってくるだろう
2.私の声だけじゃ彼らに届かない    
  あなたの声だけじゃ彼らに届かない             ※
3.私の力だけじゃ原爆はとめられない             ※
4.私の力だけじゃ人種差別は破れない             ※
5.私の力だけじゃ組合は作れない                ※
6.私の足だけじゃこの国を横断できない            ※
7.私の目だけじゃ未来をはっきりと見ることはできない   ※
 こうしてみると、一人から関係がつながってくることによって1+1が2以上、それこそ100万の力にさえなっていくことによって変えていくことができるのだという希望的観測のもと、シーガーは歌い続けました。
 今日の聖書は12人のうちの一人が欠けて、それを補ったということではありません。絶えず教会の関係性というものを問い返し、整えていくことによって、1+1>2の働きができていく可能性をいつも教会は持っているのだということです。わたしたちは今日、この聖霊が確かに働かれていることを信じることが赦されている幸いを受け止めたいと思います。ここに教会のつながり方を確認することができます。

2014年5月18日 (日)

使徒言行録 1章3~11節 「前を向いて歩こう」

 「上を向いて歩こう」という有名な歌があります。作詞は永六輔、作曲は中村八大で、坂本九が歌っていました。「寿」というバンドが永六輔からも中村八大の息子からもOKされたという替え歌として歌っています。次のような内容です。

「前を向いて歩こう」
 前を向いて歩こう 涙がこぼれてもいいじゃないか 
 泣きながら歩く ひとりぼっちじゃなかった夜 
  幸せは空の上にはないよ 
  幸せは胸の中に 心の奥に 
 前を向いて歩こう 涙がこぼれてもいいじゃないか
 泣きながら歩く ひとりぼっちじゃなかった夜 
  思い出す愛する人を 
  ひとりぼっちじゃなかった夜


 今日の聖書は使徒言行録に描かれた主イエスの昇天の記事です。上を見上げているのではなくて前を見つめながら歩むことへの促しが共鳴しているのを感じます。[イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(1:10-11)]
 この白い服を着た二人の人の「なぜ天を見上げて立っているのか」との言葉には、「天」に象徴される宗教性からの解放が示唆されているように思われます。宗教性によって陶酔するようにしてではなく、非陶酔性をもって前進していくようにとの促しです。
 マルクスは、「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書きました。この宗教のアヘン性を岡林信康は「クソくらえ節」で次のように歌いました。「ある日聖なる宗教家 信者の前で説教した この世でがまんしていれば きっと天国行けまっせ ウソコクなこの野郎 こきゃあがったなこの野郎 見てきたようなウソをこくなよ 聖なる神の使者」と。
 宗教には、このようなアヘン性が付きまとっていることは事実です。しかし、本日の聖書の昇天の記事は告げるのは、それを乗り越えることへの促しがメッセージとして届けられており、わたしたちが前を向いて歩く道筋が用意されているということです。ここに信頼する群れとして整えられたいと願います。

2014年5月11日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章1~11節 「復活に与って」

 パウロは元々ユダヤ教の伝道者でした。彼は復活のキリストに出会う前のことを非常に誇りに思っていたように描かれている個所があります。割礼の問題、律法の問題、これは初期のキリスト教が非常に大きな問題として持っていたのですが、要するに律法を守りながらイエス・キリストを信じていくのか、律法を守らずにもイエス・キリストを信じるとこができるかという問題です。パウロは自分の出自はユダヤ人であると、しかも生粋であると述べていながら、それをキリストのゆえに無益なことだと判断するに至ります(フィリピ3:1-11参照)。
 かつてのパウロは自分が生粋のユダヤ人であるということ、それが自分の存在の拠り所だったのでしょう。つまり、ユダヤ人であるというアイデンティティにすがって生きるということです。これは危険な生き方であり、異なる価値観に生きるあり方に対して言葉や物理的な暴力による排外的なセンスに親和的です。パウロが「自分はユダヤ人である」ということによって自らを自らとして立たされる理解が砕かれるのです。それが復活のキリストが現れた出来事なのです。パウロがキリスト教徒を迫害するためにダマスコという街に行こうとして近づいたら、復活のキリストが不思議な仕方で現れたというのです(使徒9:1以下参照)。
 「次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」(15:8)とあるのは以下の意味合いを持っています。自分というものが、先の使徒たちよりも劣った仕方でキリストに出会ったということです。そして復活のキリストの力に与って生きていくということは、もう一回赤ん坊から生き直してことが可能であるということです。そのことによって、かつてのパウロのような熱心なユダヤ教徒たちから殺意を抱かれても、さらにはかつて迫害していた教会の人たちから疑いの目を持たれても、もう一度やり直していくことで乗り切ることができる確信があるのです。
 パウロの回心に記事から知らされるのは、復活のキリストの側から働かれる呼びかけの力に出会わされてしまう時には、いつでも初心に帰り、やり直しがきくということです。わたしたちは、しばしば困難な状況に立たされた時に絶望してしまうことがあります。しかし、乗り越える力が復活のキリストの呼びかけから、すでに備えられていることを信じることが赦されているのです。
 このように今日の聖書は語りかけているのです。

2014年5月 4日 (日)

ヨハネによる福音書 20章24~29節 「平和があるように」

 トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(20:25)と言っています。
 疑いというものをもっているところにイエスは現れるということです。トマスは復活のキリストに会った時、確かに見てはいるのですが、復活のキリストの体を指と手によって確認はしていないのです。このトマスは合理主義者であり実証主義者であり、合理的な経験主義者であったかもしれない。自分が経験したことを客観的に証明できなければ信じないという風に言ったのですが、そういう立場をとっている人に対して復活のキリストは自らを現してくださる。トマスより先に復活のキリストに出会った人たちはいるけれども、その時間差はあるかもしれないけれども、疑いのただ中に向かってさえも、復活のキリストは現れてくださるのだと。
 しかも、手には十字架に磔られた時の太い釘、槍によって刺された脇腹、傷だらけのままイエス・キリストは復活して、その姿を、不信仰に向って現してくださるのだと、その約束が今日の聖書において語られている時に、一つの慰めがあります。それは、わたしたちが日々の試練・疑いの中で神を信じることができなくなっても、必ず、わたしたちの目の前で身構えていてくださるからです。そして、わたしたちが気づいた時、その姿は傷だらけのままである。わたしの苦しみを共に、わたしよりも前に、負ってくださっている姿です。未だイエス・キリストを信じることができないし、疑いの中にある、あるいは興味さえないと、そのような人に対してさえ、復活のキリストは傷だらけのままで身構えておられるのです。
 そのキリストはすべての弱さの極みである根本的な罪を、身代金として身代わりとして代理として負われたのです。そして、その姿で語るのは「あなたがたに平和があるように」との言葉です。祝福の言葉です。傷だらけの復活のキリストは、このような意味において勝利者なのだとの宣言を共に受け止めたいと願います。

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