コリントの信徒への手紙一 15章1~11節 「復活に与って」
パウロは元々ユダヤ教の伝道者でした。彼は復活のキリストに出会う前のことを非常に誇りに思っていたように描かれている個所があります。割礼の問題、律法の問題、これは初期のキリスト教が非常に大きな問題として持っていたのですが、要するに律法を守りながらイエス・キリストを信じていくのか、律法を守らずにもイエス・キリストを信じるとこができるかという問題です。パウロは自分の出自はユダヤ人であると、しかも生粋であると述べていながら、それをキリストのゆえに無益なことだと判断するに至ります(フィリピ3:1-11参照)。
かつてのパウロは自分が生粋のユダヤ人であるということ、それが自分の存在の拠り所だったのでしょう。つまり、ユダヤ人であるというアイデンティティにすがって生きるということです。これは危険な生き方であり、異なる価値観に生きるあり方に対して言葉や物理的な暴力による排外的なセンスに親和的です。パウロが「自分はユダヤ人である」ということによって自らを自らとして立たされる理解が砕かれるのです。それが復活のキリストが現れた出来事なのです。パウロがキリスト教徒を迫害するためにダマスコという街に行こうとして近づいたら、復活のキリストが不思議な仕方で現れたというのです(使徒9:1以下参照)。
「次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」(15:8)とあるのは以下の意味合いを持っています。自分というものが、先の使徒たちよりも劣った仕方でキリストに出会ったということです。そして復活のキリストの力に与って生きていくということは、もう一回赤ん坊から生き直してことが可能であるということです。そのことによって、かつてのパウロのような熱心なユダヤ教徒たちから殺意を抱かれても、さらにはかつて迫害していた教会の人たちから疑いの目を持たれても、もう一度やり直していくことで乗り切ることができる確信があるのです。
パウロの回心に記事から知らされるのは、復活のキリストの側から働かれる呼びかけの力に出会わされてしまう時には、いつでも初心に帰り、やり直しがきくということです。わたしたちは、しばしば困難な状況に立たされた時に絶望してしまうことがあります。しかし、乗り越える力が復活のキリストの呼びかけから、すでに備えられていることを信じることが赦されているのです。
このように今日の聖書は語りかけているのです。
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