使徒言行録 1章3~11節 「前を向いて歩こう」
「上を向いて歩こう」という有名な歌があります。作詞は永六輔、作曲は中村八大で、坂本九が歌っていました。「寿」というバンドが永六輔からも中村八大の息子からもOKされたという替え歌として歌っています。次のような内容です。
「前を向いて歩こう」
前を向いて歩こう 涙がこぼれてもいいじゃないか
泣きながら歩く ひとりぼっちじゃなかった夜
幸せは空の上にはないよ
幸せは胸の中に 心の奥に
前を向いて歩こう 涙がこぼれてもいいじゃないか
泣きながら歩く ひとりぼっちじゃなかった夜
思い出す愛する人を
ひとりぼっちじゃなかった夜
今日の聖書は使徒言行録に描かれた主イエスの昇天の記事です。上を見上げているのではなくて前を見つめながら歩むことへの促しが共鳴しているのを感じます。[イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(1:10-11)]
この白い服を着た二人の人の「なぜ天を見上げて立っているのか」との言葉には、「天」に象徴される宗教性からの解放が示唆されているように思われます。宗教性によって陶酔するようにしてではなく、非陶酔性をもって前進していくようにとの促しです。
マルクスは、「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書きました。この宗教のアヘン性を岡林信康は「クソくらえ節」で次のように歌いました。「ある日聖なる宗教家 信者の前で説教した この世でがまんしていれば きっと天国行けまっせ ウソコクなこの野郎 こきゃあがったなこの野郎 見てきたようなウソをこくなよ 聖なる神の使者」と。
宗教には、このようなアヘン性が付きまとっていることは事実です。しかし、本日の聖書の昇天の記事は告げるのは、それを乗り越えることへの促しがメッセージとして届けられており、わたしたちが前を向いて歩く道筋が用意されているということです。ここに信頼する群れとして整えられたいと願います。
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