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2014年4月

2014年4月27日 (日)

フィリピの信徒への手紙 2章6~8節 「教会は歩み続ける」

 テキストの示すところは、キリストの遜り(へりくだり)です。神が、神として自己完結することを捨てて、真の人間として来てくださったというのです。わたしたちの友として仲間としてです。これは驚くべき事柄です。
 教会は遜りのキリストへの応答的態度が備えられていることへの信頼において、キリストにおいて倣って、この世を旅人として歩み続けていくことが基本です。
 神奈川教区の「教区形成基本方針」には以下のようなくだりがあります。長いですが引用します。

 我々は、1941年の日本基督教団の成立、1954年の「教団信仰告白」、1967年の「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、1969年の日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同等、今日改めて問い直すべき内容を含む課題を負う教団の現実を踏まえ、理解や方法論の対立を伴うその他の諸問題についても、意見を誠実につき合せ、対話を重ね、聖霊の導きを求めつつ、なお一つの地域的共同体としての教区形成を目指すことを基本方針とする。
 我々は既に、この状況の中で時と地域と課題とを共有している。さまざまな理解の相違や対立は存在する。しかし我々は共に集まり、共に祈り、共に語り合い、共に行動することが許されている。我々は対立点を棚上げにしたり、性急に一つの理念・理解・方法論に統一して他を切り捨てないよう努力する。忍耐と関心をもってそれぞれの主張を聞き、謙虚に対話し、自分の立場を相対化できるよう神の助けを求めることによって、合意と一致とを目指すことができると信じる。
 我々は、合同教会としての形成、教会会議、今日の宣教、教会と国家、教会と社会との関わり、差別問題、さらに教区運営・教区財政、地区活動、諸教会の宣教の支援等、教区として取り組むべき諸課題を担い、当面合意して推進し得る必要事項を着実に実施できるようにと願うものである。

 ここには、教区としてキリストの遜りに対する応答的態度への模索を読み取ることができます。
 わたしは、果たしてキリストの遜りに倣う者なのでしょうか?わたしたちは相応しい共同体なのでしょうか?遜りの極みである十字架上から、さらには復活の姿から主イエスは、わたしたちに寄り添いつつ問いかけておられるのではないでしょうか。

2014年4月20日 (日)

マルコによる福音書 16章1~8節 「待っていてくださる方」

 定説ではマルコによる福音書は16章8節で終わっていたとされます。しかし、それでは終わり方として不自然だと考える向きも少なくありませんでした。この点について説得的な解釈を提示しているのが聖書学者の荒井献です。マルコによる福音書の循環構造から再読行為において理解されるというものです。復活のイエスに会えるのはガリラヤである、と。16章の8節のあと、もう一度1章に立ち返ると、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、彼らがガリラヤ湖の畔で声をかけられている。「わたしについて来なさい」という出会いがそこで起こるということです。
 詩編121に「都に上る歌」があります。これからエルサレム巡礼に旅立つ人がいます。見上げると、そこには山々が立ちはだかっている。ここでいう「山々」とは、日本の緑豊かなイメージではなく、むしろ枯れ果てた、<いのち>とは程遠い、死をさえ予感させるようなものです。それを見上げているのです。この旅を始めても大丈夫なのだろうか、到着することができるのだろうか、途中で強盗に襲われたり、病に倒れたり、獣に襲われたりケガをしたり、そんなことはないのだろうか、様々な心配や不安が心をよぎります。
 しかし、続く7から8節には次のようにあります「主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」。
 行く道を守っていてくださる。そのような神の守りへの信頼が、旅立つ人に向かって語られているのです。きっと大丈夫。どんな旅であっても神の守りの確かさに包まれているのだ、と。
 わたしたちは、<いのち>が貸し与えられて、この世での生を受け、旅をするようにして人生を歩みます。そして、やがてそれぞれの課題に直面する、その度毎に復活のキリストがいてくださるのです。だから、わたしは大丈夫だという信頼を置いて歩むことができるし、そのことを確認するのが復活を祝うことでもあろうかと思います。
 自分の意志で生まれてきた人は誰もいません。この、わたしたちが生まれた、ということ自体、この世に<いのち>として呼び出してくださった方がいる。そこには、すでに復活のイエス・キリストが待っていてくださって、わたしたちはこの世に生を受けたことを信じることができるようになる。そして、この世における様々な課題や、人生としての旅のただ中に復活のキリストが待っていてくださる。さらに言えば、この世における旅をすべて終え、神のもとに再び帰るその時にさえ、復活のキリストは待っていてくださる。このように、わたしたちがいついかなるところにいても絶えず復活のキリストは待っていてくださるのです。復活のキリストに示される神の遍在を信じつつ。

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