マルコによる福音書 16章1~8節 「待っていてくださる方」
定説ではマルコによる福音書は16章8節で終わっていたとされます。しかし、それでは終わり方として不自然だと考える向きも少なくありませんでした。この点について説得的な解釈を提示しているのが聖書学者の荒井献です。マルコによる福音書の循環構造から再読行為において理解されるというものです。復活のイエスに会えるのはガリラヤである、と。16章の8節のあと、もう一度1章に立ち返ると、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、彼らがガリラヤ湖の畔で声をかけられている。「わたしについて来なさい」という出会いがそこで起こるということです。
詩編121に「都に上る歌」があります。これからエルサレム巡礼に旅立つ人がいます。見上げると、そこには山々が立ちはだかっている。ここでいう「山々」とは、日本の緑豊かなイメージではなく、むしろ枯れ果てた、<いのち>とは程遠い、死をさえ予感させるようなものです。それを見上げているのです。この旅を始めても大丈夫なのだろうか、到着することができるのだろうか、途中で強盗に襲われたり、病に倒れたり、獣に襲われたりケガをしたり、そんなことはないのだろうか、様々な心配や不安が心をよぎります。
しかし、続く7から8節には次のようにあります「主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」。
行く道を守っていてくださる。そのような神の守りへの信頼が、旅立つ人に向かって語られているのです。きっと大丈夫。どんな旅であっても神の守りの確かさに包まれているのだ、と。
わたしたちは、<いのち>が貸し与えられて、この世での生を受け、旅をするようにして人生を歩みます。そして、やがてそれぞれの課題に直面する、その度毎に復活のキリストがいてくださるのです。だから、わたしは大丈夫だという信頼を置いて歩むことができるし、そのことを確認するのが復活を祝うことでもあろうかと思います。
自分の意志で生まれてきた人は誰もいません。この、わたしたちが生まれた、ということ自体、この世に<いのち>として呼び出してくださった方がいる。そこには、すでに復活のイエス・キリストが待っていてくださって、わたしたちはこの世に生を受けたことを信じることができるようになる。そして、この世における様々な課題や、人生としての旅のただ中に復活のキリストが待っていてくださる。さらに言えば、この世における旅をすべて終え、神のもとに再び帰るその時にさえ、復活のキリストは待っていてくださる。このように、わたしたちがいついかなるところにいても絶えず復活のキリストは待っていてくださるのです。復活のキリストに示される神の遍在を信じつつ。
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