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2014年3月

2014年3月30日 (日)

マルコによる福音書 15章1~15節 「磔られる神」  

 イエスは予備審問の最高法院でも、ピラトのところでも「何も答えないのか」と問われています。どちらの土俵にも乗らないのです。 沈黙するイエスは、非常な落ち着きによって引き受けようとしているのです。ゲッセマネの園で祈られた時にイエスは、十字架という盃を避けたいとしつつ「しかし」という祈りが深められる中で「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ります。この言葉どおりに、構図としては、群衆が叫び続ける興奮状態とイエスが沈黙を守る冷静な態度の在り方が対比される。「御心に適うことが行われますように」という言葉に委ねていく生き方とは、どのようなものなのかを映しだそうとしています。  「十字架につけよ」と群衆もイエスに対して敵対していく物語になっていることからすると、広い意味での「十字架につけよ」という風に言っていくような扇動されて、それに乗ってしまうような烏合の衆としての在り方に人間というものが如何に弱いのか、ということです。選挙でもそうです。扇動の旨い人の陣営が勝利しますね。煽りたてる何かによってです。時代時代の空気の中で扇動される中に巻き込まれてしまう在り方について警戒する、最高法院の裁判においてもピラトの前での裁判においても「何も答えないのか」という仕方で落ち着いている在り方というものを、今一度十字架途上のイエスの姿から学ぶべきことがあるとするならば、「十字架につけよ」と叫ぶ群衆と読み手が決して無関係ではありえないということをです。  十字架へイエスを追いやったのは誰?それはわたしだ、わたしたちだ、へと内省を促す働きがあるのです。場に飲み込まれしまう群衆心理から自由でない人間の弱さがある。教会は「十字架につけよ」と叫んだ群衆が実は自分たちなのだと考えるようにされるためです。「十字架につけよ」という叫びの中、「何も答えないのか」と問われつつ佇んでいる静かなあり方の中に、わたしたちは今一度この社会の中で煽られ、自分の考えや自分の立ち位置が時代に飲み込まれてしまい自らを失ってしまうような在り方に対して、あなたは今どこにいるのか、どのような態度で、この世界でこの世において旅を続けるのか、という問いに対する応答、自己検証への促しがあるのです。「わたしたちのために」わたしたちと共にいてくださるようにして、インマヌエルの貫徹の故に、わたしたちの一切の悪しき事柄、いわゆる根源的な罪をイエス・キリストご自身が代理として担ってくださることによって、わたしたちが「赦された罪人」として、時代に翻弄されないで静かに冷静に歩んでいく道の約束が、この最高法院での裁判、そしてピラトの前での裁判におけるイエス・キリストの姿に読み取れるのではないでしょうか。イザヤ書53章の預言は、ここに実現されているのです。

2014年3月23日 (日)

マルコによる福音書 14章66~72節 「破れの中に」

 ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14:31)と語り、ほかの弟子も同様でした。
 ペトロがどんな破れをもっているか、どんなに弱いのか、どんなに意気地無しか、ということをイエスご自身はご存じだったでしょう。そういう人たちこそを「これと思う人々」として、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3:14-15)とあるように、わざわざ破れに満ちた者たちを招き、選ぶ。それがイエスの招きの特質です。 
 「いきなり泣き出した」とありますが、イエスの一番弟子だと思ってついてきているつもりだったし、イエスをメシヤであると信じ、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と嘘偽りなく心から告白しておきながらも、3度確実に知らないと言ってしまった自分の愚かさや弱さに対する後悔や懺悔の念というものが身体の中から湧きあがって来て、「いきなり泣き出した」のです。
 わたしは、イエス・キリストはあえてペトロのような、そしてわたしたちのような者を主の御用のために立てられたということを信じます。弱さの中にこそ働かれるところのイエス・キリストの憐れみに包まれることによって、その弱さがそのままで強さとして備えられ、胸を張って立ちあがる希望と勇気が与えられていく道筋があるのだということを信じることができるのです。ペトロはそんなに立派な人間に生まれ変わることはなかったと思いますが、それでも福音書が読み継がれていく中で、弱さをもったペトロを用いて教会が形成されてきた。このようなペトロをあえて主は用いられたところにこそ慰めがある。立派な人間や名誉やお金や権力のある人によって担われていくのではなく、破れのある人の中にこそイエス・キリストの憐れみにおいて力が備えられていくことによって、その弱さによって命が結ばれ、より豊かな命を生きることができるように招かれた共同体が教会なのです。
 このような意味からして、もう一度イエスが言われた言葉を思い出して「いきなり泣き出した」を読むと、そこで流されたペトロの涙が、悲しみとか後悔からイエス・キリストに対する感謝の涙に変えられていく、そこに向かって教会は歩んでいくのだということを今日の聖書は告げようとしているのではないでしょうか。ペトロがそしてわたしたちが流す涙が、弱さや後悔という涙から感謝の涙に変えられていく道筋が約束として備えられている、その弱さの中にこそ神の憐れみを信じることが赦されている、わたしたち一人ひとりが現代のペトロして赦されているということを信じることができる。ここに憐れみを見出す者は幸いです。

2014年3月16日 (日)

マルコによる福音書 14章32~42節 「祈りの極み」

 イエスの生涯は祈りの生涯でした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1:11)と。この神の御心に生きる生き方として、神に聴くという態度の祈りが1:35-39で為されたのではないでしょうか。御旨に従う生き方として伝道活動を続け、その活動のまとめ、今まで自分がどのような歩みを為していたのかというところで、十字架による処刑を目前にして祈られているわけです。しかも、14章に入ってイエスを殺す計画が具体化し、ナルドの香油の女の物語で葬りの準備がなされ、ユダの取引があったとされます。最後の晩餐があり、逮捕に際して弟子たちは逃げて行くことを前もって語っている文脈の中で祈られています。全くの孤独です。なので、一人ではいられずペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたのです。
 しかし、彼らは眠ってしまいます。眠ってしまうことと逃げ出してしまうことには相通じるイエスに対する無理解があるのですが、その中でイエスは祈るのです。祈るに際して「イエスはひどく恐れてもだえ始め」(14:33)とあるように、自らの運命に対する恐れ慄きを隠すことなく表明します。さらには彼ら三人に向かって「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(14:34)と、一人でいられないほど悲しいと共にいてほしいと頼むのですが彼らは眠ってしまうのです。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」(14:35)とあります。弟子たちと心が通じて行かない、そしてさらには自分の孤独、恐れ、恐怖というものに囚われたままです。
 しばしばわたしたちは、祈るということに対して、こんなことを口にしてはいけないのではないかと自己規制してしまうことがあります。しかしイエスは、「怖い」と神の前に自らを曝け出す祈りをしたのです。さらに「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(14:36)と。アッバというのは父に対する親しい呼びかけの言葉です。近しく今ここにいる神に向かって訴えかけるのです。神の全能に対する全幅の信頼をもって、「杯」に象徴される苦しみを耐えることはできないと祈ります。
 しかし、祈りが深められ、神に聴いていく姿勢の中で自己相対化が起こるのです。「しかし」(14:36)という事柄です。神の前に聴いていく中、突然起こる展開点としての「しかし」です。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)と。
 ゲッセマネの園での祈りは、祈りの極みだと言えます。わたしたちが真実に祈る生き方があるとするならば、このイエスの祈りのように、全て自分をさらけ出しつつも「しかし」という自己相対化からの展開の道筋への期待と希望に生きる祈りに他なりません。ここからキリスト者として世に対して証ししてく生涯が整えられていく約束と促しへと導かれていくのです。

2014年3月 9日 (日)

マルコによる福音書 14章12~21節 「人の限界を越えて」

 イスカリオテのユダは裏切り者の代名詞のような悪人とされています。しかし、本当のところはどうなのでしょう。
 今日の聖書では、21節後半の「生まれなかった方が、その者のためによかった。」とありますが、切り捨てたり排除したりということよりも、イエスのユダに対する自分から離れていく憐れみとか悲しみを吐露しているように読めるのです。ユダは確かにイエス逮捕に際して手引きをしています。では他の弟子たちはイエスを裏切らなかったのでしょうか?27節以下で弟子たちが散ってしまうことの指摘に、ペトロは言います「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:31)と。
 しかし、残る11人はこぞって逃げたのです。たとえ、ユダに悪意があってイエスを裏切ったとしても、逃げる方が卑怯ではありませんか?また、他の弟子たちも含めて身に覚えがないとは言えないのです(14:18-19参照)。イエスの弟子たちは一人残らずイエスを裏切ったのです。しかし、イエスは全部の弟子たちを、もちろんイスカリオテのユダも、その裏切りの全てを受け止め赦しているのです。その赦している一つの証拠というのが今日の記事において過ぎ越しの食事を共にしているということです。心許したものと共に食事をする、これは後の聖餐式の元の記事になっていますが、ここで12人はパンと杯を受けているのです。それが14:22-25に書かれている、聖餐式において読む言葉です。一つのパンを裂き、イエスの身体に与り、葡萄酒を一つの器から回し飲みしてイエスの血潮に与るという赦しの徴として。「主の食卓」に全員が与っているのです。このあり方から、つまり12人という中でユダだけをハジクことによって相対的にペトロを優位にするというような発想は解体されなければいけないと読みとれます。
 教会というのは多かれ少なけれ破れや縺れ、そういう傷を、あるいは躓きをもっています。イエスによって赦されることによって作られる教会の原型というものが、この12人の在り方において示されているのです。ペトロでありユダである「わたし」や「あなた」が、赦されて聖餐式に与るのです。それぞれ事情が違うにせよ破れや綻びをもった者たちが赦された罪人として呼び集められ、イエスの赦されてあるという宣言に生かされることによって、お互いの破れやほつれ、綻びとかをお互いに受け止めあっていくのです。イエスが語った赦しの生き方において、ペトロもその他の弟子たち、イスカリオテのユダも含めて水平の地点に立たされるのです。共に一つの主の身体の枝であって、それを結び付けているのは自分たち人間の思いなどではなくて、イエスの招きの恩寵によるほかないという信仰的立場からしか教会の方向性の一致というものは見出せないということです。人の限界を越えたところにこそ働くイエスの赦す愛があるのです。

2014年3月 2日 (日)

マルコによる福音書 14章1~9節 「語り継がれる無駄遣いの話」

 食事の席に一人の女性が、高価な香油の入った石膏の壺をもってきて、壺を壊してイエスの頭に香油を注ぎかけました。名も無く言葉も残されていない女性が信仰告白をパフォーマンスとして行ったのです。これは8章27節以下のペトロの信仰告白の軽薄さに対するアンチとして示されています。イエスの受難予告の前にペトロは「あなたは、メシアです」と「正しい」言葉による信仰告白をしていますが、続く受難予告において叱られます。信仰告白がイエスの十字架への苦しみに無理解な口先のことだという指摘があるのです。しかしこの女性は、イエスの苦しみの道に対して共鳴し、自分と共に苦しんでくださる方に共鳴しつつ、応答を精一杯行ったのです。
 油を注いだ、ということには大きく言って二つの意味があります。象徴的な行為が、王の即位の儀式を表します。ヘブライ語でメシヤ、ギリシャ語でキリストとは「油注がれた者」です。王ないしは救い主です。当時、油を注がれた者はローマを転覆させてユダヤ人の国を作る王として期待されていました。しかし、イエスは弱い者の側に立って生き、そのために死んでいく、苦難の僕としての王なのです。マルコによる福音書ではイエスは遜りの十字架へと歩む王です。「仕えられるためではなく仕えるため」にです。エルサレム入城に際しても軍馬ではなく、平和の王としてロバの子に跨るパフォーマンスをします。これが一つ目の意味です。
 もう一つはイエスの埋葬の準備です。イエスが十字架で殺されて墓に納められ、三日目の朝に女性たちが油を携えて墓に行った時、墓は空でした。当時の埋葬は油を塗って亜麻布で包むという方法が一般的であったようです。墓に納められた時に油が塗られていないので、女性たちはきちんと埋葬にしたいと願ったのです。しかし、イエスの埋葬の身体にはすでに油が塗られたのだということ、これら二点の意味においての象徴的意味があります。
 1~2節ではイエス殺害の計画が具体化しつつあり、10節からはユダの裏切りの記事があり、これらに挟まれた、不穏な空気に満ちている場面です。イエスがいつ捉えられてもおかしくない状態です。イエスの十字架への道行きに対して、しっかりと目を留める中で、<今>わたしは、イエスの苦しみの道によって自分の苦しみが支えられ、その中にあって共鳴する心によって結びあわされているから大丈夫だということへの感謝の証として、この人は油を注いだのです。平和の王としての即位と埋葬の出来事の象徴を「あなたはこのような方なのだ」、わたしは信じる、との信仰告白です。イエスが苦しみにおける共鳴を引き出すことを直感的に分かった人は、無駄遣いと言われようとも相応しい、振る舞いで応答することがあるのです。

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