« マルコによる福音書 14章32~42節 「祈りの極み」 | トップページ | マルコによる福音書 15章1~15節 「磔られる神」   »

2014年3月23日 (日)

マルコによる福音書 14章66~72節 「破れの中に」

 ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14:31)と語り、ほかの弟子も同様でした。
 ペトロがどんな破れをもっているか、どんなに弱いのか、どんなに意気地無しか、ということをイエスご自身はご存じだったでしょう。そういう人たちこそを「これと思う人々」として、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3:14-15)とあるように、わざわざ破れに満ちた者たちを招き、選ぶ。それがイエスの招きの特質です。 
 「いきなり泣き出した」とありますが、イエスの一番弟子だと思ってついてきているつもりだったし、イエスをメシヤであると信じ、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と嘘偽りなく心から告白しておきながらも、3度確実に知らないと言ってしまった自分の愚かさや弱さに対する後悔や懺悔の念というものが身体の中から湧きあがって来て、「いきなり泣き出した」のです。
 わたしは、イエス・キリストはあえてペトロのような、そしてわたしたちのような者を主の御用のために立てられたということを信じます。弱さの中にこそ働かれるところのイエス・キリストの憐れみに包まれることによって、その弱さがそのままで強さとして備えられ、胸を張って立ちあがる希望と勇気が与えられていく道筋があるのだということを信じることができるのです。ペトロはそんなに立派な人間に生まれ変わることはなかったと思いますが、それでも福音書が読み継がれていく中で、弱さをもったペトロを用いて教会が形成されてきた。このようなペトロをあえて主は用いられたところにこそ慰めがある。立派な人間や名誉やお金や権力のある人によって担われていくのではなく、破れのある人の中にこそイエス・キリストの憐れみにおいて力が備えられていくことによって、その弱さによって命が結ばれ、より豊かな命を生きることができるように招かれた共同体が教会なのです。
 このような意味からして、もう一度イエスが言われた言葉を思い出して「いきなり泣き出した」を読むと、そこで流されたペトロの涙が、悲しみとか後悔からイエス・キリストに対する感謝の涙に変えられていく、そこに向かって教会は歩んでいくのだということを今日の聖書は告げようとしているのではないでしょうか。ペトロがそしてわたしたちが流す涙が、弱さや後悔という涙から感謝の涙に変えられていく道筋が約束として備えられている、その弱さの中にこそ神の憐れみを信じることが赦されている、わたしたち一人ひとりが現代のペトロして赦されているということを信じることができる。ここに憐れみを見出す者は幸いです。

« マルコによる福音書 14章32~42節 「祈りの極み」 | トップページ | マルコによる福音書 15章1~15節 「磔られる神」   »

マルコによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルコによる福音書 14章66~72節 「破れの中に」:

« マルコによる福音書 14章32~42節 「祈りの極み」 | トップページ | マルコによる福音書 15章1~15節 「磔られる神」   »

無料ブログはココログ