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2014年3月16日 (日)

マルコによる福音書 14章32~42節 「祈りの極み」

 イエスの生涯は祈りの生涯でした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1:11)と。この神の御心に生きる生き方として、神に聴くという態度の祈りが1:35-39で為されたのではないでしょうか。御旨に従う生き方として伝道活動を続け、その活動のまとめ、今まで自分がどのような歩みを為していたのかというところで、十字架による処刑を目前にして祈られているわけです。しかも、14章に入ってイエスを殺す計画が具体化し、ナルドの香油の女の物語で葬りの準備がなされ、ユダの取引があったとされます。最後の晩餐があり、逮捕に際して弟子たちは逃げて行くことを前もって語っている文脈の中で祈られています。全くの孤独です。なので、一人ではいられずペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたのです。
 しかし、彼らは眠ってしまいます。眠ってしまうことと逃げ出してしまうことには相通じるイエスに対する無理解があるのですが、その中でイエスは祈るのです。祈るに際して「イエスはひどく恐れてもだえ始め」(14:33)とあるように、自らの運命に対する恐れ慄きを隠すことなく表明します。さらには彼ら三人に向かって「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(14:34)と、一人でいられないほど悲しいと共にいてほしいと頼むのですが彼らは眠ってしまうのです。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」(14:35)とあります。弟子たちと心が通じて行かない、そしてさらには自分の孤独、恐れ、恐怖というものに囚われたままです。
 しばしばわたしたちは、祈るということに対して、こんなことを口にしてはいけないのではないかと自己規制してしまうことがあります。しかしイエスは、「怖い」と神の前に自らを曝け出す祈りをしたのです。さらに「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(14:36)と。アッバというのは父に対する親しい呼びかけの言葉です。近しく今ここにいる神に向かって訴えかけるのです。神の全能に対する全幅の信頼をもって、「杯」に象徴される苦しみを耐えることはできないと祈ります。
 しかし、祈りが深められ、神に聴いていく姿勢の中で自己相対化が起こるのです。「しかし」(14:36)という事柄です。神の前に聴いていく中、突然起こる展開点としての「しかし」です。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)と。
 ゲッセマネの園での祈りは、祈りの極みだと言えます。わたしたちが真実に祈る生き方があるとするならば、このイエスの祈りのように、全て自分をさらけ出しつつも「しかし」という自己相対化からの展開の道筋への期待と希望に生きる祈りに他なりません。ここからキリスト者として世に対して証ししてく生涯が整えられていく約束と促しへと導かれていくのです。

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