マルコによる福音書 14章1~9節 「語り継がれる無駄遣いの話」
食事の席に一人の女性が、高価な香油の入った石膏の壺をもってきて、壺を壊してイエスの頭に香油を注ぎかけました。名も無く言葉も残されていない女性が信仰告白をパフォーマンスとして行ったのです。これは8章27節以下のペトロの信仰告白の軽薄さに対するアンチとして示されています。イエスの受難予告の前にペトロは「あなたは、メシアです」と「正しい」言葉による信仰告白をしていますが、続く受難予告において叱られます。信仰告白がイエスの十字架への苦しみに無理解な口先のことだという指摘があるのです。しかしこの女性は、イエスの苦しみの道に対して共鳴し、自分と共に苦しんでくださる方に共鳴しつつ、応答を精一杯行ったのです。
油を注いだ、ということには大きく言って二つの意味があります。象徴的な行為が、王の即位の儀式を表します。ヘブライ語でメシヤ、ギリシャ語でキリストとは「油注がれた者」です。王ないしは救い主です。当時、油を注がれた者はローマを転覆させてユダヤ人の国を作る王として期待されていました。しかし、イエスは弱い者の側に立って生き、そのために死んでいく、苦難の僕としての王なのです。マルコによる福音書ではイエスは遜りの十字架へと歩む王です。「仕えられるためではなく仕えるため」にです。エルサレム入城に際しても軍馬ではなく、平和の王としてロバの子に跨るパフォーマンスをします。これが一つ目の意味です。
もう一つはイエスの埋葬の準備です。イエスが十字架で殺されて墓に納められ、三日目の朝に女性たちが油を携えて墓に行った時、墓は空でした。当時の埋葬は油を塗って亜麻布で包むという方法が一般的であったようです。墓に納められた時に油が塗られていないので、女性たちはきちんと埋葬にしたいと願ったのです。しかし、イエスの埋葬の身体にはすでに油が塗られたのだということ、これら二点の意味においての象徴的意味があります。
1~2節ではイエス殺害の計画が具体化しつつあり、10節からはユダの裏切りの記事があり、これらに挟まれた、不穏な空気に満ちている場面です。イエスがいつ捉えられてもおかしくない状態です。イエスの十字架への道行きに対して、しっかりと目を留める中で、<今>わたしは、イエスの苦しみの道によって自分の苦しみが支えられ、その中にあって共鳴する心によって結びあわされているから大丈夫だということへの感謝の証として、この人は油を注いだのです。平和の王としての即位と埋葬の出来事の象徴を「あなたはこのような方なのだ」、わたしは信じる、との信仰告白です。イエスが苦しみにおける共鳴を引き出すことを直感的に分かった人は、無駄遣いと言われようとも相応しい、振る舞いで応答することがあるのです。
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