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2014年3月 9日 (日)

マルコによる福音書 14章12~21節 「人の限界を越えて」

 イスカリオテのユダは裏切り者の代名詞のような悪人とされています。しかし、本当のところはどうなのでしょう。
 今日の聖書では、21節後半の「生まれなかった方が、その者のためによかった。」とありますが、切り捨てたり排除したりということよりも、イエスのユダに対する自分から離れていく憐れみとか悲しみを吐露しているように読めるのです。ユダは確かにイエス逮捕に際して手引きをしています。では他の弟子たちはイエスを裏切らなかったのでしょうか?27節以下で弟子たちが散ってしまうことの指摘に、ペトロは言います「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:31)と。
 しかし、残る11人はこぞって逃げたのです。たとえ、ユダに悪意があってイエスを裏切ったとしても、逃げる方が卑怯ではありませんか?また、他の弟子たちも含めて身に覚えがないとは言えないのです(14:18-19参照)。イエスの弟子たちは一人残らずイエスを裏切ったのです。しかし、イエスは全部の弟子たちを、もちろんイスカリオテのユダも、その裏切りの全てを受け止め赦しているのです。その赦している一つの証拠というのが今日の記事において過ぎ越しの食事を共にしているということです。心許したものと共に食事をする、これは後の聖餐式の元の記事になっていますが、ここで12人はパンと杯を受けているのです。それが14:22-25に書かれている、聖餐式において読む言葉です。一つのパンを裂き、イエスの身体に与り、葡萄酒を一つの器から回し飲みしてイエスの血潮に与るという赦しの徴として。「主の食卓」に全員が与っているのです。このあり方から、つまり12人という中でユダだけをハジクことによって相対的にペトロを優位にするというような発想は解体されなければいけないと読みとれます。
 教会というのは多かれ少なけれ破れや縺れ、そういう傷を、あるいは躓きをもっています。イエスによって赦されることによって作られる教会の原型というものが、この12人の在り方において示されているのです。ペトロでありユダである「わたし」や「あなた」が、赦されて聖餐式に与るのです。それぞれ事情が違うにせよ破れや綻びをもった者たちが赦された罪人として呼び集められ、イエスの赦されてあるという宣言に生かされることによって、お互いの破れやほつれ、綻びとかをお互いに受け止めあっていくのです。イエスが語った赦しの生き方において、ペトロもその他の弟子たち、イスカリオテのユダも含めて水平の地点に立たされるのです。共に一つの主の身体の枝であって、それを結び付けているのは自分たち人間の思いなどではなくて、イエスの招きの恩寵によるほかないという信仰的立場からしか教会の方向性の一致というものは見出せないということです。人の限界を越えたところにこそ働くイエスの赦す愛があるのです。

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