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2014年2月

2014年2月23日 (日)

ヨハネによる福音書 4章5~42節 「いのちの水」

~エジプトをテーマにした世界祈祷日礼拝として~
 イエスはユダヤ人です。井戸で出会ったのはサマリヤ人の女性です。ユダヤとサマリヤはもともとは一緒の民族だったけれども、時代状況の中で分けられ、憎み合っていました。しかし、イエスは民族的な壁を平気で乗り越えてしまうのです。また当時、他の目がないところで男と女が二人でいるのは良くないと考えられていましたが、イエスは頓着しません。
 井戸というのは普通朝か夕方、女性たちが水を汲みがてら様々な話に花を咲かせる社交場でした。しかし、この女性は人目を避けるように昼頃来たのです。自分は皆から認められていないし仲間外れにされている。自分はダメな人間なのだと思わなければならないように強いられていたのでしょう。イエスは声をかけて話をすることによって、その人が胸を張って生きていっていいのだと気が付くようにする、そういう力をもっていました。イエスの言葉は、ただ一回、水を飲むことよりも、もっと体の中から水が溢れて心が豊かにされていくような力を与えてくれるのです。そのサマリヤの女性は、身体の中から<いのち>の水が湧きあがってくる経験をしたのです。そして、以前は人前に出ていくのは嫌だったけれども、元気が出て今度はイエスのことを皆に伝えたいと思って町に出ていくことができるようになったのです。
 今日のテーマであるエジプトは、古代から繁栄した文化をもっていました。ナイル川を灌漑することで荒れ地にも畑を広げていったのです。しかし近年は独裁政権のもと、苦しむ人々もいました。2011年にいわゆる「アラブの春」が起こり、チュニジアから始まって、主にアフリカ大陸の北の国々で民主化が始まりました。約30年間支配していたムバラク大統領を民衆が辞めさせ、選挙でムルシ大統領になりました。これから平和な世界がエジプトにもやってくるのだと期待したのですが、今度は軍隊がクーデターを起こしました。この4月には、おそらくエジプトは軍事政権になるだろうと予測されています。
 でも、絶望しちゃいけないし、希望はあると理解したい。あのサマリヤの女性に向かってイエスが語ったように、決して涸れることのない<いのち>の水が湧いてくる力が与えられているのだから、決して絶望することなく歩んでいくことができるのです。その希望を失わなければ、きっとたとえ今はそうでなくても皆が喜んで暮らせる平和に向かって歩んでいくことができるのだと。砂漠に流れる水のようなイエスの思いを共に受け止めたいと願います。

2014年2月16日 (日)

「祈るイエス」 マルコ1:35~39    山田 康博(大泉教会牧師)

 イエスが最初に活動したのはカファルナウムだった。イエスが会堂を出て町の中を歩くと多くの人々がついてきた。本当に休む間もなく一日を働き疲れを覚えた。癒しが必要だった。その一方でよくやった、よく働いたという実感もあった。しかしその思いが、どこかで断ち切られなければ本当の意味で疲弊し傲慢になる。この町でイエスは活動を始めた。弟子たちは、イエスがここを拠点にして、侵略者のローマと戦う準備をするのではないかと期待した。現にイエスの活動の第一日目でみんなを引きつけた。期待は大きく膨らんだ。次の朝、弟子たちや追っかけが目を覚ますと、イエスの姿が見つからない。彼らは慌てた。彼らの心配は、ローマ軍か領主のアンティパスの回し者が来て、事が大きくなる前に、イエスを暗殺してしまったか、どこかに連れ去ったのではないかと心配したと思う。弟子たちが心配している時、イエスは「人里離れた所へ」(35節)行って、一人朝早く「祈っておられた」。人里離れたところで、昨日、自分がやったこと、頑張ったこと、そして皆から期待されたこと、よい評判を得たこと等とは関係のないところで神と向かったということ。そこで神と向かい、神の意志は何かと問うた。その祈りが癒しの時だった。イエスが一人祈っていると、ペテロがイエスを見つけ「みんなが捜しています」と言う。この言葉には「どうしてここにいるのか。なぜ無駄な時を過ごすのか。昨日の働きの続きをせよ」という非難だった。イエスはこの言葉を聞き、祈りを妨害する言葉の中に神の答えを聞いた。そして告げた。「ほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」。祈りは、今の自分の行為、考え、行動を中断し、自分ではないものの声を求め待つことだ。イエスは翌日の朝ただ一人祈った。しかし弟子たちは今日も走り続けようと思い、イエスを探し回り祈りを妨害した。弟子たちの姿に私達の社会を見る。祈りを妨害されたイエスは、この町での働きを中断して他の町々村々に向かわれた。そこでは一人の病に関わり、一人の人間の苦悩に寄り添う働きがなされ、重荷を負う者とともに祈ることがなされる。

2014年2月 9日 (日)

マルコによる福音書 13章32~37節 「覚醒と陶酔の違い」

 いつであるのか分からない来るべき世の終わりの日に向かって過ごす教会の責任というものがここでは語られています。13:31「 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」というイエス・キリストの言葉に希望をもつことによって、為すべきことを為していけ、ということです。マルコによる福音書では、「目を覚ましている」ことと対応するようにゲッセマネの園の祈りの記事があります(14:32‐42)。イエスが弟子たちに向かって目を覚まして祈っていなさいと命じたのに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは眠ってしまうのです。
 日本基督教団は、眠りこけてしまったマイナスの歴史をもっています。天皇制に身を委ねていく仕方で国家に対して熱狂し、陶酔していく中で日本基督教団は成立しました。そのことの反省を踏まえて1967年イースターに「第二次大戦化における日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる「戦責告白」を出すことになります。日本基督教団の罪性というものを、どこか覚めた視座の中で捉えておく必要があるのでしょう。
 教会というものがイエスの背中を見ながら歩んでいく時に、イエスであればどうだったか、ということを絶えず心のどこかに据えておかないと宗教的にも国家的にも熱狂、陶酔に飲み込まれていくのです。そして、すでに弟子たちが、イエスがゲッセマネの園で祈られた時に眠ってしまうという限界をもっている人間の弱さ、教会の弱さの中で、それでも「気を付けて目を覚ましていなさい」との言葉に信頼を寄せていくことこそが、この時代のただ中にあって負うべき教会の使命なのです。
 いつやってくるかわからない世の終わりに向かう歴史の中に教会の責任がある。熱狂や陶酔の枠の中で自己完結するようなアイデンティティに安住することに対して、果たしてそうなのかという疑問符をいつもどこかにもっていなければいけない。何故だ、どうしてだ、という問いを提出することによって思考する、考えるということです。今、この国は心の中に「?」をもつことをしない思考停止状態にあるのではないでしょうか。イエス・キリストの生涯を思い起こす時に、「?」が言葉として肉をもったと言えるのではないでしょうか。その方の言葉であるからこそ、わたしたちは「気を付けて目を覚ましていなさい」ということが、この時代の中にあってどういうことなのかをいつも心に保っていられるかどうか、問われているのです。ここに信をおいて、この世における教会の責任とは何であるか、教会の使命とは、イエス・キリストを宣べ伝えるとはどういうことなのか、を「気を付けて目を覚ましていなさい」という非陶酔的な態度によって覚醒し祈るということ、このような使命が現代の教会に与えられているのです。

2014年2月 2日 (日)

マルコによる福音書 12章28~34節 「本当に大切なこと」 

 第一の掟と第二の掟において、それぞれ神への愛と隣人への愛が語られているのですが、これはシェマと呼ばれるユダヤ教の信仰告白からの引用です。イエスはシェマを逆手にとって律法学者の前提している神と隣人の規定を異化しているのです。つまり、ユダヤ人の内側に向かって規定されている神と隣人のイメージを外側に向かって解きほぐすようにして語るのです。
 たとえば、隣人という言葉からユダヤ人が思い浮かべるのは近所の人のことではなく、律法をきちんと守っている枠の中にいる同胞のことです。そして、その枠を支えているのが閉じられた共同体の神ということになります。しかし、イエスはこの概念から自由なのです。あらゆる人に対して臨むのがイエスの神であり、枠を乗り越えつつ隣人になる道を説くのがイエスなのです。閉じられた概念を無化する、相対化する、破壊していくような活動をしていったのです。ユダヤ人というアイデンティティに依って立つ生き方を拒絶していったのです。同じ言葉の土俵に立っているようで、実は言葉が通じていない事態がここにはあります。アイデンティティというものが人間を切り捨てる働きをもっているなら、それを相対化、無化していくことでしか<いのち>のかけがえのなさは取り戻せないと感じていたからに違いありません。
 ローマの支配下でのユダヤ教という信教の自由は結局のところ構造的な悪によって支えられる差別社会にすぎないとの判断があります。この辺りについてはルカによる福音書10:25-37の「善きサマリア人」の話を思い起こしてくだされば分かると思います。強盗に襲われて倒れている人を見て祭司、レビ人は通り過ぎて行ったのですが、サマリア人は手当をして、宿屋に連れて行き介抱し、かかる費用は払う約束をします。このたとえを話した時、律法の専門家に誰が隣人となったかと問いますが、論争相手はサマリア人とは言えないのです。ルカによる福音書10:37「その人を助けた人です。」に書かれているとおりです。
 枠によって<いのち>が排除されるという仕組みが、わたしたちにとっても無縁ではありません。自分が枠の内側にいることを確認することで安心を覚えるという事態が、たとえばヘイトスピーチをする人たちの登場によって露わにされているのが、今日の日本社会なのではないでしょうか?
 本当に大切なこと。「言葉」に安住せず、前提を取り払うことによって現れて来る人間同士の関係性を生身のもととして受け止め、新たに作り出していくところにこそ神を愛し隣人を愛することへの導きがあるのです。

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