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2014年2月16日 (日)

「祈るイエス」 マルコ1:35~39    山田 康博(大泉教会牧師)

 イエスが最初に活動したのはカファルナウムだった。イエスが会堂を出て町の中を歩くと多くの人々がついてきた。本当に休む間もなく一日を働き疲れを覚えた。癒しが必要だった。その一方でよくやった、よく働いたという実感もあった。しかしその思いが、どこかで断ち切られなければ本当の意味で疲弊し傲慢になる。この町でイエスは活動を始めた。弟子たちは、イエスがここを拠点にして、侵略者のローマと戦う準備をするのではないかと期待した。現にイエスの活動の第一日目でみんなを引きつけた。期待は大きく膨らんだ。次の朝、弟子たちや追っかけが目を覚ますと、イエスの姿が見つからない。彼らは慌てた。彼らの心配は、ローマ軍か領主のアンティパスの回し者が来て、事が大きくなる前に、イエスを暗殺してしまったか、どこかに連れ去ったのではないかと心配したと思う。弟子たちが心配している時、イエスは「人里離れた所へ」(35節)行って、一人朝早く「祈っておられた」。人里離れたところで、昨日、自分がやったこと、頑張ったこと、そして皆から期待されたこと、よい評判を得たこと等とは関係のないところで神と向かったということ。そこで神と向かい、神の意志は何かと問うた。その祈りが癒しの時だった。イエスが一人祈っていると、ペテロがイエスを見つけ「みんなが捜しています」と言う。この言葉には「どうしてここにいるのか。なぜ無駄な時を過ごすのか。昨日の働きの続きをせよ」という非難だった。イエスはこの言葉を聞き、祈りを妨害する言葉の中に神の答えを聞いた。そして告げた。「ほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」。祈りは、今の自分の行為、考え、行動を中断し、自分ではないものの声を求め待つことだ。イエスは翌日の朝ただ一人祈った。しかし弟子たちは今日も走り続けようと思い、イエスを探し回り祈りを妨害した。弟子たちの姿に私達の社会を見る。祈りを妨害されたイエスは、この町での働きを中断して他の町々村々に向かわれた。そこでは一人の病に関わり、一人の人間の苦悩に寄り添う働きがなされ、重荷を負う者とともに祈ることがなされる。

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