マルコによる福音書 13章32~37節 「覚醒と陶酔の違い」
いつであるのか分からない来るべき世の終わりの日に向かって過ごす教会の責任というものがここでは語られています。13:31「 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」というイエス・キリストの言葉に希望をもつことによって、為すべきことを為していけ、ということです。マルコによる福音書では、「目を覚ましている」ことと対応するようにゲッセマネの園の祈りの記事があります(14:32‐42)。イエスが弟子たちに向かって目を覚まして祈っていなさいと命じたのに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは眠ってしまうのです。
日本基督教団は、眠りこけてしまったマイナスの歴史をもっています。天皇制に身を委ねていく仕方で国家に対して熱狂し、陶酔していく中で日本基督教団は成立しました。そのことの反省を踏まえて1967年イースターに「第二次大戦化における日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる「戦責告白」を出すことになります。日本基督教団の罪性というものを、どこか覚めた視座の中で捉えておく必要があるのでしょう。
教会というものがイエスの背中を見ながら歩んでいく時に、イエスであればどうだったか、ということを絶えず心のどこかに据えておかないと宗教的にも国家的にも熱狂、陶酔に飲み込まれていくのです。そして、すでに弟子たちが、イエスがゲッセマネの園で祈られた時に眠ってしまうという限界をもっている人間の弱さ、教会の弱さの中で、それでも「気を付けて目を覚ましていなさい」との言葉に信頼を寄せていくことこそが、この時代のただ中にあって負うべき教会の使命なのです。
いつやってくるかわからない世の終わりに向かう歴史の中に教会の責任がある。熱狂や陶酔の枠の中で自己完結するようなアイデンティティに安住することに対して、果たしてそうなのかという疑問符をいつもどこかにもっていなければいけない。何故だ、どうしてだ、という問いを提出することによって思考する、考えるということです。今、この国は心の中に「?」をもつことをしない思考停止状態にあるのではないでしょうか。イエス・キリストの生涯を思い起こす時に、「?」が言葉として肉をもったと言えるのではないでしょうか。その方の言葉であるからこそ、わたしたちは「気を付けて目を覚ましていなさい」ということが、この時代の中にあってどういうことなのかをいつも心に保っていられるかどうか、問われているのです。ここに信をおいて、この世における教会の責任とは何であるか、教会の使命とは、イエス・キリストを宣べ伝えるとはどういうことなのか、を「気を付けて目を覚ましていなさい」という非陶酔的な態度によって覚醒し祈るということ、このような使命が現代の教会に与えられているのです。
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